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【うたかたの日々のために。】No.14 「時代」


 あたらしい時代の文化に触れれば触れるほど、ふるきよき時代の文化が恋しくなる。もしも数十年前であれば、自分はいったい、どんなふうに生きていたのだろうか。もう少し、今よりも生きやすかったのだろうか。それとも、今よりもさらに抑圧された毎日を送っていたのだろうか。底冷えする東京の街でひとり眠る前に、最近はよく、こんな郷愁をかかえている。まあ、物書きを志すような人間は、きっとどこかに欠陥があるに決まっているのだから(こころの奥底に埋められない何かがなければ、そもそも毎日文章を書く必要などないだろう)、どの時代に生きていたって、既存の社会の枠組みには馴染めずに、手に入らない何かを求めて、手前勝手な生き方をしていたに違いない。金を稼いで、酒を飲み、思想を費やす。あぶくのような毎日の中で、一瞬だけ輝くひらめきを見失わないように、今日もこうして文章を書いている。『点を線で結んでいく仕事を、お前がやるのだ。』(狭井悠)


《今日のぼんやり》

 毎日更新209日目。今朝、起き抜けにツイッターを眺めていると、文学界の記事が目に止まった。メディアアーティストの落合陽一氏と、初の小説が芥川賞候補になった社会学者・古市憲寿氏の対談記事である。

 ちょっと印象に残るフレーズがあったので、以下引用。

古市 落合君と僕に共通点があるとしたら、世間的には「平成的」な存在だと見られているけれども、実は案外「昭和的」なところだと思う。落合君はメディアアーティストとして奇抜な活動をする人だと思われている一方で、テレビで活躍したり、すごくがむしゃらに働いたり、意外と昭和的なところがある。発想自体も、1960年代の思想をアップデートして今風に見せているわけでしょう。落合君の場合、それはどういう意図でやっているの?
落合 どの分野にも共通する話だけど、歴史の波は繰り返しながら違った地平を連れてくる。平成の次を見てる僕は平成の人から見れば昭和に見えるかもしれない。カルチャーでも60年代や70年代のカルチャーがリバイバルするでしょう。僕らの世界でも、自分の師匠が20年前にやっていたことより、その一つ上の世代が40年前にやっていたことのほうが面白く見える。なぜかというと、テクノロジーが進化してリソースが変わるから、話が2段階進むんですよ。過去が戻ってくる。

 こちら、おっしゃるとおりだなと思った次第。メモとして、その後に僕がツイートした内容も添付しておく。

 僕の将来的な野望として、現代にはびこる大量消費型のコンテンツ群と、古代から脈々と続く息の長いコンテンツ群(宗教を含む)を対比して、いかに古来の伝統を失うことなく、現代のコンテンツに血脈を引き継いでいくことができるのか、なんらかの答えを出すという取り組みがある。

 どこから手をつけたら良いかわからないくらいにはデカいテーマなのだけど、ライフワークとしてそろそろ着手していきたいところ。

 そして、この400文字スケッチ「うたかたの日々のために。」の連載も、その一貫なのだ。ひらめきを書き留め、考えを整理しながら、最終的な成果物にたどり着く軌跡を残すのが、この毎日更新の狙いでもある。

 今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。

 明日もまた、この場所でお会いしましょう。

 それでは。ぽんぽんぽん。


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