見出し画像

【今日のnote】「謙虚さ」という強さ。書き手に求められる「心づくし」。


 どうも、狭井悠です。

 毎日更新のコラム、102日目。


 昨今、不機嫌な強い言葉で書かれた文章が読まれたり、あるいは注目されたりすることがあります。感情にはいろいろな色味があるので、不機嫌さを激しい感情の流れのままに表すというのもひとつの文章のあり方であり、それはそれで、ある種の表現手法だと言えるでしょう。

 たとえば、僕自身もときおり、そういう類の文章を書くことがあります。以下の文章などは、まさに不機嫌から生まれた権化という感じでした。憤りにまかせて筆を動かすと、こういう文章に仕上がるんだな、という典型です。


 ただ、僕が文章を書く上でもっとも大事だと心得ているのは、最終的には、いつ、どんなときも、書き手は謙虚であれということです。文章ほど、その人の本質を表す表現方法はありません。文章は、人格の鏡。コーマンさを持つ人が書いたものは、その恐るべき本性が透けて見えるものです。

 文章を書くということは、魂や心や身体、己の全てを捧げて、読み手に奉仕することだと思います。つまり、自分という存在をいかに、列の最後に置いて、世の中を見通せるかということが、大事なのではないでしょうか。

 ゆえに、たとえ不機嫌であったとしても、激しく主張したいことがあったとしても、最終的には、「私のようなものは」という謙虚さがなければならない。そうした想いが、文章にまろみをもたらします。

 文章というものは、時に刀にもなりうる、たいへん危険なものです。

 しかし、インターネット上に流れてくる文章を読んでいると、時折、そうした自覚なく、みさかいなく読み手を斬り倒すことにカタルシスを覚えているのではないか? と思わせるような表現を、見かけることがあります。

 書いている本人は気持ちよかろうとも、その所業はコーマンさの鬼に支配されている恐るべき行為であって、いわゆる憑き物の類だと思います。読み手を斬り倒す前に、己の生き方を見直し、禊をする必要があるでしょう。

 己の弱さを自覚し、何度も苦悩して、それでも伝えたいことがある。そういう姿勢こそが、物書きの本分であり、美しさであると僕は思っています。

 太宰治は、随筆の「如是我聞」で以下のように書いています。

 私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。

 この一文には、太宰治という書き手の謙虚さが、凝縮されているように感じられます。彼は非常に屈折した生き方で有名ではありますが、そんな人間の書いた文章でも、今日まで読み継がれていることには、間違いなく理由があると思います。

「己を愛するがごとく、汝の隣人を愛する」ということは、まさに献身の精神です。書くことに身を捧げ、己を愛するように、読み手を愛する。彼は、そのようにして書き続ける自分を、イエス・キリストに重ねたのでした。

 文章を書くという行為の、奉仕の心の本質は、以下の文章でもはっきりと語られています。同じく、「如是我聞」からの抜粋です。

 文学に於て、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣(こころばえ)。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。

 文学において、最も大事なものは「心づくし」。

 己を列の最後に置く謙虚さ、隣人を愛する献身の姿勢、自分の弱さを抱きしめて苦悩したうえで、それでも絞り出す一筋の想い。

 それらが、文章に本質的な力を与えます。そして、そのようにして書かれた文章こそが、見せかけの強い言葉で書かれた文章では到底敵わない、本当に強い表現なのだと心得ています。

 単なる強い言葉は、決して強くありません。書き手の献身と、心づくし、謙虚さこそが、文章にしなやかさを与え、読み手の心にいつまでも残るような、美しく、そして強い言霊を生み出すのだと思います。

 ちなみに、過去にも、「強い言葉とは何か?」という考察を行ったコラムがあったので、以下もチェックしていただければ幸いです。


 今日は、太宰治の「如是我聞」を参照しながら、文章を書くことにおける大切な心得とは何かを考えてみました。もちろん、文章表現というのは、千差万別な手段があってしかるべきです。僕が今日語ったことが、すべて正しいなどとは当然思っていません。多様性があってこそ、今日まで「書くこと」は発展してきたわけですから、異論はむしろ大歓迎です。

 ただ、少なくとも僕は、書き手のコーマンさが透けて見えるような文章だけは、個人的に許すことができないんです。文章は刀であり、恐るべき力を持っている。吹き出る血の臭いを嗅いだことのない人間は、いつか報いを受けることになります。

 だからこそ、僕は、自らの弱さや苦悩から目を背けることなく、言霊の持つ荒魂(あらみたま)の側面を忘れることなく、常に謙虚に、読み手を愛する心づくしの文章を、これからも書いていきたいと考えています。


 今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。

 明日もまた、この場所でお会いしましょう。

 それでは。ぽんぽんぽん。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。