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「フォークギター1本あれば」昭和の歌

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ222枚目

<「フォークブームの頃」 © 2024 画/もりおゆう 水彩=ガッシュ 禁無断転載>

昭和フォークブームは1963年頃から始まる。

所謂いわゆる第一次フォークブームだ。
森山良子、マイク真木らが代表選手で、お金持ちのお坊ちゃん、お嬢さんの上品な音楽と言う印象が強い。

フォークが一大ブームになったのは、やはり1968年頃から始まった第二次フォークブームかと思う。第一次の頃と大きく違うのは、基本的に自分で作詞作曲した歌を歌う、と言う点だ。業界のプロの作詞家/作曲家ではなく、アマチュアの自分達が歌を作ると言う姿勢がより鮮明になり、それは僕らにとって凄く新鮮なものだった。

五つの赤い風船

「遠い世界へ」*は、そんな僕らに届いたブーム初期の名曲だった。

「遠い世界へ旅に出ようか それとも赤い風船に乗って」
このイントロがとても好きだった。僕は思春期の真ん中にいた。
「明るい太陽 顔を見せても 心の中は いつも悲しい」
正にティーンエンジャーの僕達のことを歌っている、、、そんな風に思い、憧れるように口ずさんだ。


岡林信康

同時期に岡林信康が、「友よ」や「山谷ブルース」と引っ提げて登場するとプロテスト・フォーク、反戦フォークは一大ブームとなる。
僕もよく聞いた。
第一次のように既成のレコード業界の作曲家が作ったフォークとは全く違う発進力があり、同時代感があった。

当時の大学生にとっては、フォークは大学紛争や新宿西口フォークゲリラといった反戦運動と結びついていたが、僕ら地方の高校生にとっては反戦というより青春の苦悩の共有といった感が強かった。僅か一二年後に僕らが上京した時には、東京はフーテン(和製ヒッピー)の闊歩する平和な街に一変していた。反戦フォークは嘘のように去っていた。数年前に流行ったフォークゲリラ*という言葉も死語となっていた。

元々アメリカのようにベトナム戦争の真っ只中で現実に徴兵制を抱える国の反戦運動に比べると、平和な日本に暮らす都会の若者たちの反戦運動は、一部のコアとなった学生たちを除けば、正直言ってどこか真実味に欠けるところがあった。反戦フォークの大半も、ある意味では単なる「反戦ファッション」だった。田舎にいてピースマークのネックレスをしてイケていると思い込んでいた僕らだってそうなのだから、人様を非難する気は毛頭ないが(笑)

ただ、それでも岡林信康はよかった。
「友よ」などの反戦を歌う歌にも反戦を超えて青年期の若者の心に届く普遍性があり、加えて、そう、彼の声は何と言っても非常に綺麗だった。
胸に染み入るようなメロディラインと彼の声が深夜にラジオから聞こえてくると耳をそば立てたものだ。素人がギターを抱えて歌うのだから所謂いわゆる歌の上手い・下手などは基本的には然程さほど問われなかったフォークソングだったが、彼は歌手として他のフォークシンガーとは全く違うように感じた。今風に言えば、彼はきっと天性のボーカリスト、と言うのだろうか。

フォーク・クルセダーズ

「フォーク・クルセダーズ」もほとんど同じ時期に登場し、デビュー曲「オラは死んじまっただ」と言うコミックソングで爆発的なヒットを飛ばしたのは周知の事実。実にふざけた歌だったが、あの頃は、ただ目新しいもの、それまでとは全然違うものを僕らは欲していたのだと思う。
それでも彼らはいい意味で見事に僕らを裏切り、「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」などの名曲を次々にリリースし僕らを本当に虜にした。僕的には「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」がセンシティブな高校時代とピタリと重なる。この辺りは、同じ時代に青春時代を送った人には共有出来る感覚かと思う。

ちなみに僕はこの曲を高校の文化祭で仲間と組んだフォークグループで歌った(笑) 沢山のフォークギターを持った若者達と同じように。



この後、フォークソングは吉田拓郎、かぐや姫などが率いる第三次フォークブームへ繋がっていくのだが、それは又後日、昭和の歌vol.2にて、、(笑)


*ステレオタイプの表現とは、すでに社会に浸透している先入観や思い込み、そこから生まれる連想を当てこんだ表現。
*「遠い世界へ」作詞作曲/西岡たかし 五つの赤い風船 ビクター 1968年
*フォークゲリラ 昭和43年頃に大阪・東京などで自然発生的に始まった学生・市民の反戦集会。 駅前広場などで、反戦的なフォークソングなどを歌った。連帯感という言葉が流行ったのもこの時代。
<©2024もりおゆう この絵と文章は著作権によって守られています>(©2024 Yu Morio This picture and text are protected by copyright.)

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