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【映画感想文】学校の盗難事件をきっかけに、誰も責任を取れない現代社会のヤバさが浮き彫りに - 『ありふれた教室』監督: イルカー・チャタク

 新宿武蔵野館で『ありふれた教室』を見てきた。本当は公開日に行きたかったけれど、祖母が入院したり、臨時の仕事が入ったり、ドタバタしていて週が明けてしまった。

 前評判のよさは耳にしていた。今年、日本で公開される映画は豊作だらけだけれど、その中でもナンバーワンなんじゃないかと言っている人もいて、かなり期待値は上がっていた。

 こういうとき、自分が勝手にハードルを上げていて、実際に見てみるとそうでもなかったとなることもしばしばだけど、『ありふれた教室』は想像を軽く超えてきた。間違いなく、大傑作!

 ストーリーは些細な出来事が積み重なっていく。学校の盗難事件をきっかけとして、対応に対応を重ねていくうち、取り返しのつかない事態に発展してしまう。

 本来、「人のものを盗んではいけない」というシンプルな答えで丸く収まるはずなのに、人種差別や所得格差、プライバシー侵害やマスコミ・SNSの暴走など、話はどんどん複雑化。気づけば、解決の糸口すら見えなくなっている。

 表向き、どの対応も悪くはなくて、それぞれが自分の範囲でできることをやっている。ただ、裏を返せば、責任を追求されない方法を選んでいるとも言えるわけで、先生も生徒も保護者も、一人として、学校でいまなにが起きているのかを把握できていない。 

「そういう決まりなの」
「わたしからはなにも言えない」
「知らんけど」

 みんな、不満を抱えつつ、言い訳ワードで自分の意見を誤魔化している。やがて、空気的に悪者はこいつだって人柱が現れる。民主主義的な方法と称して、匿名の多数決というマジョリティの暴力でその人物とサヨウナラ。

 いや、これって、現代社会そのものじゃん!

 ドイツの映画だけど、日本の話を見ているような感覚になった。最近だと責任者が誰なのかはっきりしないまま、「やることになっているから」と批判を無視する大阪万博が如実に重なる。もしや、悪しき日本らしさは世界基準になりつつあるのか?

 かつて、日本の特徴は中心が空っぽな点にあると河合隼雄は言った。中空構造というやつである。

 また、ロラン・バルトも、大都会東京の真ん中に皇居とあることを知り、日本の中心には穴が空いていると似たような結論に達していた。

 どちらの論もそう単純なものではないけれど、わたしとしては以下のように長所と短所を理解している。

 絶対的な規範は存在しないので、矛盾する価値観を取り入れることが可能である。一方、トラブルが起きたときは責任の所在が曖昧になるため、社会システムごと破綻する危険がある。

 そうなる理由として、河合隼雄は古事記などの神話に基づく多神教文化にルーツを求めた。ロラン・バルトは歌舞伎の女形が女の格好をしているように、様々なお約束で構成されていることに注目し、本質よりも表象(記号)が重視されやすいと指摘した。

 対して、西洋はキリスト教など一神教が強い。思想的には論理を積み重ねる傾向があり、本質が重視される。自然と価値観がなにに基づいているか明確となる。

 従って、日本と西洋は大きく異なっていると言われてきた。

 でも、いまの感覚からすると、その通りだねって必ずしも頷くわけにはいかない。もちろん、納得できる部分はたくさんあるが、さすがに単純過ぎるよね。

 そもそも、西洋と比較して日本独特の価値観を見つけようとする行為の恣意性が気になってしまう。ただ、これらの本が出された60〜80年代、比較文化論は当たり前のようにナショナリズム的な使われ方をしていたので、仕方がないのかもしれない。

 加えて、90年代以降、世界の範囲がガラッと変わってしまった。ソ連は崩壊し、資本主義は急加速。ネオリベの浸透とインターネットの普及でグローバリズムが一気に進んだ。

 ぶっちゃけ、もともと信仰されていた宗教が一神教だろうと、多神教だろうと、文化的に本質を重視しようと、表象を重視しようと、資本主義の前でなんの意味も持たなくなってしまった。

 GDPが上がった国は成長していて、下がった国は衰退している。株価が上がった会社は成長していて、下がった会社は衰退している。収入が上がった人は成長していて、下がった人は衰退している。

 えらく単純な指標で、すべてが判断されるようになってしまった。

 かと言って、誰もお金の価値を本気で信じているわけではない。みんな、こんなものは単なる紙切れに過ぎず、アプリ内の数字データに過ぎないと理解している。あの世に持っていかないことも知っている。

 ただ、現実として、お金がないと生活ができないので、人生の大半をお金を稼ぐことに費やさざるを得ない。そして、お金を使うことに費やさざるを得ない。

 たぶん、ほとんどの人が生活のために仕事をしている。でも、生活の本質がなにかと聞かれたら、うまく答えられないだろう。つまり、本当はなんのために仕事をしているのかわかっていない。社会とはそういうものだから、なんとなく働いているだけなのだ。

 なんということでしょう。資本主義の中心は空っぽだった! こうして、気づけば、中空構造はワールドワイドに広がっていた。

 というか、もともと中空構造は日本特有のものではなくて、絶対的な価値観が後退し、相対的な価値観が幅を利かせる社会において、普遍的な現象だったのかも。

 絶対的な価値観がないとき、人々は自分の利益が最大化するように行動する。このとき、利益は相対的なものであるから、内容が各々異なってくる。

 例えば、学校内で財布を盗まれた人にとって、犯人を取り締まることで自分の利益は大きくなる。そのため、自己の権利に基づいて、監視カメラの導入や警察への通報を求めたりする。

 一方、財布を盗まれていない他の人たちにしてみれば、犯人じゃないのに疑われることに不快感を覚える。捜査をされるとなれば、プライバシーを侵害されたと感じ、拒否権を発動するかもしれない。

 結果、犯人はおいてけぼりで、被害者とそうじゃない人たちが対立し始める。なんなら、捜査に協力しないやつは怪しいと言われたり、不十分な証拠で犯人扱いされることもあるだろう。

 学校という共有空間において、メンバーが己の利益を最大化しようとすることで、意図せぬ争いが生じ、全員が損してしまう可能性があるのだ。まるでコモンズ(共有地)の悲劇じゃないか。

 これを防ぐために、「公共の福祉」という考え方がある。人権と人権が衝突した際、社会全体の利益を優先しましょうというもので、かなりわかりやすいルールとなっている。

 しばしば、「表現の自由」をめぐり、誹謗中傷を禁止することは人権侵害であるという反論がなされたりするけれど、「公共の福祉」を用いれば、誹謗中傷が社会全体の利益に反しているのは明らかで、取り締まってよいということになる。

 ただ、そうは言っても、みんなが「公共の福祉」に同意してくれなければ、この理屈は成り立たない。

 かつては「公共の福祉」に反して、他人のことを考えず、自分の権利を行使するものは常識知らずとして非難された。モラルのない恥ずかしい人として、社会的な地位を失うため、逆説的に、自分の利益を最大化するためには「公共の福祉」に従わざるを得なかった。

 ところが、いまは違う。

 常識がなくても、モラルがなくても、恥ずかしいことをしていても、有名になってYouTubeや TikTokの再生数が伸びれば億万長者になれる。注目さえ集められれば国会議員にもなれる。過激な発言でSNSのフォロワーが増えれば、インフルエンサーとして尊敬される。

 インターネットの普及によって、個人レベルで広告収入を得られるようになったことで、「公共の福祉」に反しても自己の利益を最大化することが可能になってしまった。かつ、資本主義には絶対的な価値がないため、道徳的に振る舞うインセンティブは消えてしまった。

 すると、人々は自分の利益を最大化するため、損をしたくないと考えるようになる。不平等や不公平な扱いを受けることに敏感で、他の誰かが得することを嫌悪する。

 当然、責任なんて誰も取ろうとしない。絶えず、責任を逃れるような言動を取るべく気をつける。逆に他人の落ち度を見つけたら、すかさず指摘しないではいられない。そうすることで自分の正当性を主張できるから。

 こうなったら歯止めは効かない。不寛容な世の中の完成である。

 不寛容という言葉は現代のキーワードであり、映画『ありふれた教室』のテーマでもあった。なにせ、作中の舞台となった学校はゼロ・トレランス(不寛容)方式を取り入れているのだ。

 これは割れ窓理論に基づいて、アメリカで導入された教育方針で、70〜80年代に深刻化した学級崩壊の対策として、90年代に広まったという。

 割れ窓理論とは、建物の窓が割れている状態を放置していると周囲の犯罪率が上昇するというもので、日本ではドラマ金八先生の名言「腐ったミカン」にニュアンスが変わり、有名になった。

 なお、割れ窓理論はあくまで理論であり、実証はされていないのだが、そのキャッチーな内容からゼロ・トレランス(不寛容)方式は支持を集めた。

 要するに、悪の目は小さいうちに摘んでおこうというもので、教育現場だと校則を厳しく設定し、少しでもルールを破った生徒がいたら、容赦なく罰するという形で運用された。

 一応、日本では一部の学校しか導入していないことになっているけれど、いわゆるブラック校則が作られた背景には、ゼロ・トレランス(不寛容)方式に似た軍隊教育の理論が強く影響している。

 結局、アメリカでも日本でも、先生たちは不良を相手にするのは大変なのだ。それなら、不良になる前の状態でなんとか対策しようとするのは自然だろう。

 一秒でも遅れたら校門を閉める。髪型は細かく指定。制服の着方も指導する。部活動は強制参加でエネルギーを他のことに使えないように疲れさせる。なにかあったら留年や退学を匂わせることで言うことを聞かせる。もちろん、生意気なやつには体罰を喰らわせる。

 それぐらいしないと荒れた中高生の相手はできなかったと想像すると、然もありなんに思えてくるが、冷静にその内容を眺めてみれば、刑務所とほとんど変わらない。先生たちの利益を最大化しようとしたことで、生徒たちの利益が大幅に損なわれているのは明らかである。

 これが許されていたのは先生が絶対的な存在だったから。そうじゃなくなれば、生徒たちは反対の声をあげる。相対的な価値観に基づいて、自分たちの権利を求め始める。

 果たして、絶対的な価値観がなくなった社会において、不寛容は機能し得るのか。『ありふれた教室』の見せ場であり、これをこの時代にビジュアル化した功績は計り知れない。

 また、作中では0.999…=1か否か? という問いも有効に使われていた。

 一見するとイコールが成立するとは思えない式だが、数学の定義上、これは成り立つ。循環小数を分数に直せば簡単に証明できるのだけど、直感的には、限りなくゼロに近い1が存在しているような気がしてしまう。

 いま、わたしたちに求められているのは、理屈としては間違っている直感を信じることができるかどうかなんだと思う。わかりやすく言えば、損をするとわかっていても、あえて貧乏くじを引く勇気を持つべきなのだ。

 だいたい、責任を取るとはそういうで、なにかあったときには貧乏くじを引くという覚悟でしかない。なのに、いつしか責任者とは偉いポジションを意味するだけになってしまった。

 責任者が責任者であることを維持するため、失敗のリスクを避けるようになったら、本末転倒もいいところだ。責任者歴が何十年にも及ぶような人は仕事をしていないにもほどがある。

 だが、悲しいことに、責任を取ってこなかった責任者ほど、組織では出世する。その傾向は組織の規模が大きくなるにつれて強まり、なにを決定するにも外部のコンサルティング会社を入れるようになる。

 責任のアウトソーシングである。

 ただ、そんなものは表面上の話でしかない。外部の人間であるコンサルタントがいざってときに責任を取れるわけはないので、無責任な仕事が多発する。

 本業の調子がイマイチな大企業が次々と不動産ビジネスを始めて、都心に高層ビルやタワマンを建てているのはそのためだ。人口が減っているのに、数十年後、そこでいったい誰が暮らすというのか。

 補助金だけで存続している会社もたくさんある。新規ビジネスをサポートすると言いつつ、実際には運用されていないサービスが雨後の筍のように誕生している。下手にランニングコストをかけるより、補助金だけもらってやめちゃう方が得なのだろう。

 なんのためにやっているのか不明なイベントが各地で開催されている。発表したと言い訳するためだけの映画や演劇が数人の客を相手にあちこちで披露されている。たしかにそれでGDPは上がるんだけど、生産しなくていいものをあまりに生産し過ぎじゃない?

 一目瞭然でおかしいことがあちこちでまかり通っている。ただ、誰も止めることができない。誰も責任を取ろうとしないから。いや、正確には、誰も責任を取れないから。

 長年、みんなが責任を回避してきた宿命として、我々は責任を取る術をなくしてしまった。これは絶望以外のなにものでもない。

 このままじゃヤバい。それは明白。じゃあ、どうすればいいのか?

 少しでも興味があったら、ぜひ『ありふれた教室』を見てほしい。どうしようもなくなった現代社会で希望を持つための手段を静かに提示してくれる。

 それは困難な道である。しかし、唯一の道である。進まざるを得ないだろう。

 よーし、一歩、踏み出そう。




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