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20代後半のわたしへ、ことばの代わりに本を贈る父

思えばちゃんと向き合って意見をぶつけ合うとどちらも譲らず、母に仲介に入って場を納めてもらう... のが父と私だった。
学生時代は留学費用を出してもらうなど親に負担をかけてしまう分、「自分でなんとかするからほっといて」と言い切れなかったのも大きい。

生活の大きな変化により心身の負担が大きくなっていることを察した時、父は言葉の代わりに本を贈ってくれるようになった。

対面なりLINEなりで普段から会話をしていればさらっとアドバイスをくれたりしたのかもしれない。

しかし、ただでさえ連絡を取りにくい父。
・離れて暮らしている
・基本的に電話しない
・LINEをしていない
・スマホは開かない。外出の時も写真を撮ったら電源を切ってしまう
・メールも年に何度かやりとりする程度

また、留学や海外インターンなど、海外へ行ったことのない父からすると結構大きめの決断をさらっと相談せずにしてきたので、「この子は話してくれるのを待っていても仕方ない」と思われた節もある。

最近の大きな変化といえば、体調不良での休職や転職。

母とはLINEでやりとりをするので、仕事の忙しさや大変さはなんとなく把握してくれていた。
大変そうだからと無理に「やめなさい」と言うことはせず(私が反発するであろうことを見抜いていたのだろう)、「あなたを心配している」というメッセージは表情や文章に滲ませつつも見守ってくれていた。

しかしいよいよ体調を崩し休職となった今年の夏。
事実を知った父は、私に2冊の本を贈ってくれた。

どちらも奈良県の東吉野村で私設図書館を運営するご夫婦の書籍だった。
本と実際に図書館を訪れた時の話はこちら

本とともに添えられていた手紙には、父が印象に残った一節が書かれていた。

書かれていたからと言って、そこから何を感じ取るべきか、という答えのようなものは示されていない。
「自分はここの部分が好き。自分の日常生活ではこんなふうに繋がっている。」

それだけだ。

それは父なりに、この本を読んだ時に、今の私が置かれている状況や心身の状態を可能な限り推測した上で、「この部分がヒントになるだろうから自分なりに解釈して役立てなさい」と言うメッセージなのだと思う。

身内すぎて、私たちは似すぎていて、どこか素直になりきれなくて、上手く対話ができない。

本を贈る
読む
感想を伝える

帰省したときに感想を伝えるのだって「この本よかったよ」くらい。自分でもあまりにも素っ気ないなと思ってしまう。

「この文章がね...」「この表現がね...」というのは、同僚や友人とは語り合えるのに父を相手にするとむず痒くなってしまう。

それでも「ちゃんと読んだよ」ということだけは伝えたいので、線を引きつつメモをとりつつ読んだ証を自分なりに表現する。

本という、お守りと武器を授ける

ターニングポイントととは、その状況に置かれている瞬間はあまりにもしんど過ぎて俯瞰して見る余裕なんてない。頭の片隅で「この状況を思い出して、経験してよかった、と思える日が来ればいいけれど...」と0.01ミリの期待は込めているが。

しかし、状況をターニングさせ、新たな出発の起点となるようにそっと心のお守り兼武器を授けてくれてきたのは、間違いなく父が贈ってくれた本たちだ。

転職先で一緒に働く社員さんに「本を贈ってくれるお父さんなんて素敵ですね」と仰っていただけたので、ふと振り返りたくなった。


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