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山下和美 『ランド』 : 人間と〈この世界〉

書評:山下和美『ランド』第11巻完結(モーニング KC)

山下和美の全作品を読んでいるわけではないが、ほとんど読んではいるはずだ。そのなかには、イマイチ合わなかった作品もあったが、『天才柳沢教授の生活』と『不思議な少年』は、これまで読んできた数多くのマンガのなかで、ベスト5に入る作品であろうことは疑いなく、私は山下和美を「天才」作家だと思っている。

そして『ランド』である。
たいへん期待して、第1巻の刊行から順次読み進めていった作品だが、思いのほか展開がゆっくりとしており、途中で何度か「読むのを止めようか」と思ったこともあったが、結局最後まで読むことになった。
その上で、この長編作品を評価するなら、これはもう「エンタメではない」というのがよくわかった。しかし、だからと言って、この作品を否定的に評価しているのではない。
この作品は「読者に、一緒に考えることを求めている作品」であり、それは取りも直さず「答を与えてくれない作品」だということであり、その意味で「エンタメであることを、意識的に断念した作品」だということである。

だから、普通のエンタメ的な意味合いでの「面白さ」には欠けるだろう。もちろん、四つの神に囲まれた謎めいた「この世」についての謎で、物語を引っぱっていく部分もあるにはあるが、ある程度SFを読んでいるような読者にとっては、その真相はわりあい簡単に見抜けるし、実際「この世」の秘密については、物語の中盤までに明かされてしまうので、そこが本作の読みどころではなかろう。やはり、本作の読みどころは「人の幸せとは何か」であり「人が幸福に生きられる世界とは、どのようなものか」といったことなのだろうと思う。だから、安易な答えなど与えてくれはしない。

しかし、では山下和美は、本作で何を読者に提供したのであろうか。
思うにそれは、一種の「人が思い描く理想社会のシュミレーションとその限界」だったのではないだろうか。

科学技術が進んで、人はあらゆるものを手に入れる。寿命さえ無くなったに等しい「科学万能の世界」で、しかし人は幸福になれるだろうか。一一もちろん、そんなもので人は簡単に幸せになどなれない。
「むしろ、自然のなかで生きていた頃の方が、人は幸福だった」と考える人も少なくないだろう。だが、本当にそうだろうか。

人の欲望には歯止めがきかない。「便利」であるに越したことがないからこそ、人はいろんな技術を開発するし、いったん手に入れた技術を捨てることはできない。それが仮に、かなりのリスクを伴うものだとしても、人はそちらに目を瞑ってでも、そこから得られるものを捨てようとはしないのだ。

ならば、単に「技術を捨てる」だけではなく、「技術」に関わるあらゆる「知識や記憶」を捨てて、もう一度「自然のなかで生きる生活」からやり直してみたらどうだろうか。もしかすると、今の現実とは違った、すこしは人間らしい世界を築くことができるのではないか。一一そうした「試行」のために作られたのが、本作における「この世」だったのであろう。

しかし、本作が描いた「この世」、「科学技術」から切り離されて「自然」のなかに生きる共同体社会としての「この世」は、決して「理想郷」ではなかった。そこでは「迷信」が人々の心をとらえて、無用な恐怖によって人々を締めつけていた。生産力の低さの故に、弱者が切り捨てられてもいた。つまり、今の世の中と比べても、いっこうに幸せな社会には見えないものだったのだ。
結局、人は、何を得ようと、何を捨てようと、それだけでは、幸せに満ちた、不幸のない世界など築けそうにない。絵に描いたような「理想郷」は築けそうにもないのである。

ならば、どうすれば良いのか。

そうした「問い」を読者に提示したのが、本作なのではないだろうか。
だから「答は与えられない」し、その「問い」を引き受けようとは思わない読者、嘘でも良いから「心地よい答が与えられること」だけを期待する読者には、本作は「面白くない」作品なのかもしれない。

だが、「人間とはどういうものなのか」という「人間の描き方」において、『天才柳沢教授の生活』から『不思議な少年』への変化を考えれば、『ランド』のような作品が生み出されるのも、作者にとっての必然だったのではないだろうか。

「人間への愛情」の故に、人間を肯定的に捉えようとする『天才柳沢教授の生活』、それに対し、「人間への愛情」の故に、人間の度しがたさに、時に悔し涙を流す『不思議な少年』。この方向を突き詰めた先にあるのが、本作『ランド』だったのではないだろうか。

人間は、否応なく「快楽」を求め、「便利」であることを求め、「科学技術」を推し進めていくが、どうやらそれだけでは「理想郷」は築けそうになく、それだけで人は「幸せ」にはなれそうにない。かと言って、「科学技術」を捨てれば良いのか、すべてをご破算にしてやり直せば良いのか。どうやら、それもうまくいきそうにない。人間の本質は変わらないのだから、結局は、いつか来た道をたどり直すことにしかならないのではないか。
結局、人は「誰もが幸せになれるような世界」を築くことはできないのではないか。

たぶん、そうなのだろうと、私は思う。すべての人に何が与えられようと、例えば「万能」が与えられようと、みんながそうなった社会は、きっと、みんなが生き甲斐を感じられない不幸な世界なのではないだろうか。では、人間は、未来に希望は持てないのだろうか。

私は、こうした「絶望」に至るしかない考え方は、根本的なところで「問題設定の仕方」を間違えているのではないかと思う。
むしろ、私たちが考えるべきは、「どんな社会においても、同じ状況におかれても、人によって幸せにも感じれば、不幸にも感じる」という、その「違い」の意味なのではないだろうか。

たとえば、「地位や名誉や財産」が与えられても、それで幸せになる人もいれば、不幸になる人もいる。「天才的な知能」や「美貌」が与えられたとしても、やはり同じだ。

ならば、私たちが考えるべきは「どんな条件を与えられても」、その条件のなかで精一杯「前向きに生きる」ことのできる人間であること、なのではないか。そうなることこそが、「幸せ」の秘訣なのではないだろうか。
「地位や名誉や財産」や「天才的な知能」や「美貌」などではなく、「万能の科学」でも、それからの解放でもなく、人が「幸せ」になるために必要なものとは、何なのか。
それは多分、それぞれに与えられた条件のなかで、せいいっぱい「自他の幸福」を求めることのできる人が、結局、そのままで「幸福」なのではないだろうか。

『ランド』を読んで思ったことは、「幸せ」とは「外在的条件」によって規定されるものではなく、「外在的条件」を超えて行こうとする「主体性」の方にこそあるのではないか、ということだ。
「幸福の地」とは、目指すべき遥かな場所であると同時に、それを目指して懸命に歩む者の、その立っている今という場所こそが「幸福の地」なのではないか。

これが、私の「とりあえずの回答」である。

初出:2020年9月19日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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