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末木文美士 『増補 仏典をよむ 死からはじまる仏教史』 : 仏典と対座する 〈真剣勝負の書〉

書評:末木文美士『増補 仏典をよむ 死からはじまる仏教史』(角川ソフィア文庫)

すごい本である。

最近、仏教関連書を読み始めたのだが、著名なわりにはぜんぜん大したことのない「仏教学者」が多くて、正直「日本の仏教学とは、このレベルなのか?」と失望しかけていたところだったのだが、本書を読んで、希望をつなぐことが出来た。これからも、本書著者の著書を読んでみたいと思う。

私は元創価学会員で、イラク戦争というリアルに直面して、(戦争を実質支持した)創価学会を内部批判したあげく脱会したような人間である。だから、信仰者の「自己正当化」というのには心底うんざりさせられているし、宗教というものが社会に垂れ流す害悪についても、決して抽象的なものとは考えていない。したがって、「信仰は大切」とか「いろんな宗教があって良い」などという、日本人らしい無知の故の無責任な「物分かりの良さ」には怒りすら覚える。

だからこそ、私は「信仰を捨てる」だけではなく「真の信仰とは何か(そんなものはあるのか)」を問うために、「宗教」の研究を始め、何から始めたら良いかと考えた末に、「宗教らしい宗教」としての「キリスト教」の勉強を始めた。「仏教は、どこから手をつけて良いかわからないので、まずキリスト教から」と考えたのだ。

で、「キリスト教」研究の方は、それなりに進んでいる。もう、相手が神父さんでも牧師さんでも、あるいは神学者でも、ぜんぜん平気で議論できるだろう。「あなたは、この無神論者の容赦のない一太刀を受ける覚悟はあるか」と。
そんなわけで、最近は回帰的に、仏教の方にも研究の手を広げ出した。その少し前から着手した「天皇制の日本史」の問題と関連してきたからでもある。

だが、やはり「仏教」は、どこから手をつけて良いのかが難しい。
「キリスト教」なら、まず「聖書」を通読し、それから「教父文書」や「聖書外典」を読み、「教会史」を読み「神学書」を読み、カトリック、プロテスタントなど各教派の理論家の本を読み、といった具合に進めることができる。しかし、仏教の場合は、仏典が膨大であり、それを「ひととおり読んでから」などと言っていたら、それぞれを比較検討し、批判するという段階に達するには、「仏教」専門でやっても数十年かかってしまうから、そんなことはもうとても出来ない相談だ。
だから、評判の良さそうな日本人著者の「仏教入門」をいろいろ読んで、あたりをつけてみたのだけれど、それらの著書が、キリスト教学者と比較しても、明らかにレベルが低くて、心底うんざりさせられたのである。

例えば、仏教学会において「碩学」とか言われてる、渡辺照宏の『仏教 第二版』(岩波新書 1974)を読んでみたら、これが「隠れ真言信徒」の著作でしかなく、「学者」としての客観性を根本的に欠いていた。

昔、日本人カトリック神父の本に、「プロテスタントの信仰は認める」と(第2バチカン公会議の方針に従って)書きながらも、「プロテスタンの牧師の自殺が多いのは、カトリックには教会があるけれども、プロテスタントの場合は、個人として神と向き合わなければならない、信仰上の困難さがあるからではないか」などと、陰険な誹謗を並べていた。それと同種の党派的下劣さを、渡辺は感じさせたのだ

また、『別冊100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版、2015)の著者・佐々木閑については、NHKのテキストを書くくらいだから一流の学者かと思いきや、これまた「奥歯にものの挟まったような、おかしな物分かりの良さ」を示しており、何かあるなと思って、さらにその著書を3冊ほど読んでみたら、やっぱり「生半可な信仰ゆえの学問逃避者」でしかなかった。

こんな「レベル」人たちが、語学勉強をして仏典を原書で読んで研究したから「大学者」扱いにされるのだから、私が日本の仏教研究界に失望したのも、仕方がないのではないか。
だが、そう思いながらも、まだまだ読んでいない人の方が多いのだから、面白そうなところから手当たり次第に読もうとしていたところ、本書『増補 仏典をよむ 死からはじまる仏教史』に当たって、「これは面白い。この著者は本物だ」と感心させられたのである。

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どこが「本物」なのか。それは、著者が「仏典著者の権威に盲従せず、同じ人間として、仏典テキストに向き合う、その真剣さ」である。

本書著者は、明らかに「反骨・反権威」の人だ。「僕は」などと、物言いは非常に柔らかいし、ぜんぜん威張ったところはないけれど、切り込む際には何の遠慮も手心もなく、まるで「学者なら当然のこと」だと言わんばかりに、スラリと切り込んで見せる。
こんな「まともな学者」は、めったにいるものではない。ご立派そうなことを口にするだけなら簡単だが、それを自然体で実行できる人など、百人に一人もいはしないのだ。

例えば、本書著者は、冒頭から「仏教学界」の常識に、挑戦してみせる。

『 個人的な思い出から書き始めることをお許しいただきたい。
 僕はいろいろ若い頃の精神遍歴の末に仏教を専門とするようになったが、大学院で少し本格的に研究を始めるようになっていちばん困ったのは、漢文の仏典が読めないということであった。近代の仏教研究は、インドのサンスクリット語(梵語)やバーリ語の仏典を読むことにおいて輝かしい成果を挙げてきた。それ故、仏教を専門としようとすると、まずサンスクリット語を叩き込まれる。サンスクリット語の仏典に関しては、欧米の研究の蓄積があり、不十分ではあっても辞典や文法書もあって何とか読んでいける。ところが、漢文の仏典を読もうとすると、適当な辞典も文法書もなく、手のつけようがない。『国訳一切経』というシリーズがあるが、「国訳」と銘打ちながら、実際にはいわゆる漢文書き下し体のスタイルで、読んでもさっぱり分からない。諸橋轍次の『大漢和辞典』を調べても、仏典に出てくる語彙など、まず採録していない。サンスクリット語をきちんとやれば、漢文は自然と分かるものだ、などという暴論さえもまかり通っていた。三十年以上も昔の話である。
 それでも、僕はサンスクリット語やバーリ語の仏典ではなく、漢文の仏典にこだわりたかった。というのも、日本の文化が伝統として学んできた仏典は漢文を基礎とするものだから、それをきちんと押さえなければ、自分の拠って立つ基盤が分からないではないか、という思いからだった。』(『増補版』P18~19)

本書著者・末木文美士にとっては、「どの仏典が、釈迦の説いた教説に近いか」などといったことは、本質的な問題ではなかった。重要なのは「私にとって、最も重要な教えとは何か」ということだったのである。

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そもそも、インドのサンスクリット語(梵語)やバーリ語の仏典であろうと、「原始仏教」の最古の仏典であろうと、それらに記されているのは「(釈迦が語ったのを)私はこのように聞いた」という「弟子による伝聞情報」か、それを「模したもの」でしかない。釈迦は、文書を残さなかったし、釈迦が何を考えていたのかなんてことは、正確には直弟子にさえ分からなかったはずである。残っているのは、良くて「個人的解釈」、たいがいは「想像的創造」でしかない。
ならば、すべての仏典は通時的には平等であり、重要なのは「中身(テキスト)」だ。「中身」の最も優れたものが、優れた仏典であり、古ければ良いなどという「権威主義」は、「権威依存」以外のなにものでもないのである。

しかし、前述の佐々木閑などは「最も古い経典が、オリジナルだから有難い」という立場である。だから「原始仏教」たる上座部仏教(小乗仏教)の立場に立って『大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』なんて本を書いたのだ。自身は(大乗仏教の)浄土真宗の世襲住職として録を食みながらである。
しかし、そんな佐々木閑からすれば、いくら仏教学の大家だ碩学だと言っても、(大乗仏教の)真言宗の僧侶である段階で、渡辺照宏などは「偽仏教」を担いでいる、基本を違えた学者に過ぎない、ということにもなる。自分が「浄土真宗」の僧侶であるのは「身過ぎ世過ぎの方便」だが、渡辺の真言信仰は「本気だからこそダメなのだ」ということになってしまうのだ。

いずれにしろ、このような二人が、日本を代表する仏教学者づらをしているのだから、私が失望するのも当然なのだが、そうした憂いを、末木は本書で一蹴してくれたのである。

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ともあれ、末木は、自身が「日本人」であり、日本人にとっての「仏典」とは、まず漢文漢籍であるという「歴史的民族的現実体験」に即して、「仏典」の価値を認めた。自分に縁遠い書物ではなく、私たち日本人の風土と血の中に生きてきただろうものの解明にこだわった。手応えのある現実が問題だったのである。だからこそ「著者が誰か」ではなく「何が書かれているか」が問題にもなったのだ。

したがって、末木の読みは「教条的」なものではなく、客観的に「哲学的」なものである。「テキスト」が語りかけてくるところと向き合って、その語ろうとするところと対決し、摂取し、発展させる。そんな読み方だ。

だから、「宗教としての仏教」を知らない人には「哲学書」として読める反面、実際の「宗教としての仏教」の現場での「慣習的な読み(正統教学的読解)」を知らないと、末木の読みのすごさを理解することはできないだろう。それほど、各宗派教派の読みというのは、一般に「吾が仏尊し」で、「手前味噌」かつ「ご都合主義的」なものなのである。

しかし、誰が書いたにせよ、今に残る優れた仏典を書いた著者というのは、それぞれに「非凡性」を持っていたし、その一方で「人間としての不完全性」も当たり前に持っていた。
だから末木は、「同じ人間」として、釈迦に、智顗に、圜悟に、景戒に、最澄に、空海に、親鸞に、道元に、日蓮に、そして(仏典を書いたわけだはないが、仏教とキリスト教の間で揺れ動いた人)ハビアンにも向き合い、少しの遠慮もなく、長所と弱点を指摘し、世間の誤解を解き、彼らの思考努力が今のこの時代に持ち得る価値を語る。その姿勢は「同時代の思想家どうしの対決」と、何ら選ぶところはないのである。

ただし、私もその驥尾に付して、著者に注文をつけさせていただくと、「なぜ仏典でなければならないのか」ということはある。別に、向き合うべき「思想的遺産」は、「仏典」でなくてもいい。私に言わせれば、「聖書」でもいいし「海外文学」でもいい。

もちろん末木は、自身が現に「日本人」である事実にこだわるからなのかもしれないが、こだわりどころは、何もそこだけではないだろう。
「日本人」であることよりも、「同時代性」の方が重要だと思う人は「昔の仏典より、現代の哲学」だと考えるだろうし、「日本人」であることよりも「同時代性」よりも、もっと大切なことは「目の前の苦しむ人の存在」であるとか「人類の未来」であるとか、そうした軽々には無視できない、論点がいろいろとあるはずなのだ。

だから、末木が「仏典」にこだわるのは、結局は「成り行きと趣味」だということなら理解できる。誰でも、偶然の出会いと成り行きの中で、何かを選択しながら自分を作っていくものであり、「すべて」を押さえてから、おもむろに「最重要なものを選ぶ」なんてことは出来ないからである。

したがって、末木が、その限られた時間の中で「仏典」と出会い、向き合い、そこで自らの生を展開するというのは、まったく正しいのだけれど、しかし、そうした彼の著作を読む読者に「仏典が最重要」だという、誤った印象を与えるとしたら、それはやはり不適切だ。
だから、あえて「仏典」を選ぶことの「消極的な意味」を、もう少し語ってもいいと思うし、「飾らない強さ」が魅力である末木ならば、今からだってそれができると考えるからである。

とにかく、また一人、尊敬できる先達に出会えたことを、心から嬉しく思う。

初出:2021年2月25日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年 3月 5日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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