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牧野愛博 『ルポ 「断絶」の日韓 なぜここまで分かり合えないのか』 : 「日本vs韓国」は 「ネトウヨvs朝日」に非ず(改訂版)

書評:牧野愛博『ルポ 「断絶」の日韓 なぜここまで分かり合えないのか』(朝日新書)

朝日新聞の記者が、日本と韓国の対立問題について書いた本だと言えば、大方の人は、韓国に同情的な内容で「きっと安倍政権批判をしているんだろうな」なんて思うだろう。
だが、事実はそうではない。
本書の著者は、韓国政府(ことに現・文在寅政権)から敵視され、マークされている記者なのだ。

したがって「朝日新聞の記者だから、韓国の、ましてや革新の文在寅政権には好意的だろう」などという決めつけは、韓国の現実(事実)に興味がない(妄信的決めつけしかない)ネトウヨなどと同様の、単純な左右二極の図式的推測でしかない。

(中略)

『 韓国の人を必要以上にけなし、返す刀で「だから日本人は優秀だ」と決めつける論法は取るべきではない。でも、逆に何でもかんでも「韓国人は可哀相だから、救ってやるべきだ」という主張にも賛成できない。それは、韓国の人々の事情も考えずに、善意を押しつける「パターナリズム」だと思う。そんな論法を取れば、「日本は韓国に良いこともした」という論法、形を変えた植民地主義に行き着くのではないか。』
(P285〜286)

日本と韓国は「加害者と被害者」の関係である、ということを忘れてはならない。仮に謝罪し賠償金を払おうと「それでチャラ」「これで対等」にはならない。

あなたの親や子供が殺されて、その犯人が服役し、さらにあなたの請求額を大きく上回る賠償金を支払ったとして、それで犯人があなたに「これで私が、あなたに負い目を感じる必要はなくなった。われわれはすでに、対等なのだ。したがって、今の私には、言論表現の自由もあるのだから言わせてもらうが、私が殺した、あなたの親は(子は)、殺されて当然の酷いやつだった。これが私の評価だ」などと言うことが許されるだろうか。

無論、許されない。「そんなやつ(加害者)は死刑にすべきだ」と言う日本人も、少なくはないはずだ。

罪に対する刑罰や、被害者(被害者家族)に対する賠償は、加害者が「当然すべき償い」であって、それで自身の「罪」や「加害の事実」そのものを帳消しにすることなどできないし、帳消しにはならない。
まさに覆水は盆にかえらないのだが、しかしそれでも可能なかぎり、戻す努力をするのが、加害者の当然の努めなのである。

さて、本書の著者の伝えるところによると、たしかに韓国の現・文在寅大統領とその革新政権は、そうとうに酷い。
これは、日本人にとって酷いとか不都合だとかいうことではなく、客観的に見て、文在寅政権のやり口には公正さを欠いた部分が多々あって、韓国国民のためにも好ましい政権だとは言えない、ということだ。

しかし、そんな政権が成立するのも、それまでの「韓国の歴史」があってのことであり、そのおおもとには「日本による朝鮮半島の植民地支配の歴史」があるというのは、まぎれもない事実なのだ。
日本が、あのようなこと(植民地支配)をしなければ、韓国の波乱に満ちた戦後の歴史も、その結果としての、このような極端で独善的な政権もうまれはしなかったのである。

もちろん、日韓請求権協定という「約束」が、「加害者と被害者」の間に結ばれた約束だろうと、それがどのような内容のものであろうと、「約束」は双方によって誠実に履行されなければならない。被害者だから、約束を反古にしていいということにはならない。

しかし、その約束違反に対して「加害者」が採るべき態度というものは、決して「対等の契約者」という立場に立ったものであるだけであってはならない。
たしかに「契約」自体は対等の立場で結ばれたものではあるが、その片方である日本が「加害者」であるという属性も、もう一方の韓国が「被害者」であるという属性も、消えてなくなっているわけではない。
だから、違約を指摘するにしても、日本は自身の立場に自覚を持ち、被害者の心情に十分すぎるほど配慮しなければならない。そうした、配慮もできないような「口先だけの謝罪や賠償」であっては、そもそも謝罪自体が不成立なのである。

加害者に必要なのは「心からの謝罪(謝罪の気持ち)」であって、それがなければ、いくら口先で謝って見せても、高額な賠償金を支払っても、相手は許してはくれないだろう。形ばかりの謝罪と、札束で頬を張るような賠償では、被害者感情は決して癒えることはないのだ。

そして、こんなことは、自分が被害者になった場合の気持ちを考えれば、子供でもわかる話なのだが、根本的に「加害者意識が欠如」しており、逆に「(いつまでも賠償金をむしり取られるという)被害者感情すら持っている」ために、加害者としての「誠実さ」なんてものはおよそ持ち合わせていない、今の安倍サイコパス政権では、もともと難しい交渉を進めることなど出来るわけもないし、むしろこれまでの努力を水泡に帰することしかできないというのは、残念ながら明らかだったと言えよう。

例えば「加計学園問題」一つとって見ても、あんな露骨なお友達優遇に莫大な税金がつかわれることを、その中身を知ったうえで、納得している日本国民など存在しない。
しかし、多くの国民は「あれも選挙で選んだ政権のやったことなのだ」という諦めが大きいから、有耶無耶で済まされてしまっているのだが、一方的な被害者である韓国の政権が、安倍政権の酷さを「諦める」理由など、どこにもないのである。

つまり、韓国の現・文在寅政権も相当に酷いし、日本の現・安倍政権はもっと酷い。酷い政権どおしが、どちらも独善的に角突き合わせるのだから、話がこじれるのは当然なのだが、しかし、すくなくとも「理性を持つ国民個々」は、自国政府のプロパガンダにいいように言い包められてはならない。
日本は加害者であり、その責任は、現・安倍政権にだけではなく、日本国民一人ひとりにあるのだということを、決して忘れてはならないのだ。

だから私たちは、韓国の現・文在寅政権と、日本の現・安倍政権の「現実」をしっかり理解した上で、それでも「日本人」として、世界に恥じないよう、立派に振舞わなくてはならないのである。

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【補記】(2019年9月13日)

本稿は、2019年9月12日に執筆、同日にAmazonレビューとして投稿したものの、「改訂版」である。

投稿の翌日である本日9月13日に、Amazonより『掲載することができません』というメールが届いたのだが、例によって、その理由は明記されておらず、『レビューはガイドラインに従っている必要があります。』と記されているのみであった。

しかし、なぜ今回のレビューが不掲載となったかの理由は、容易に推察できる。
それは私が、元レビューで、本書について「読みもしないで酷評する」ネトウヨのレビューがあると、扱き下ろしていたからである。

したがって、この「改訂版」では、その部分を削除(「中略」)とし、レビュー原文は、私の掲示板「アレクセイの花園」に掲載することとした。

ちなみに、私がこれまでに「不掲載」にされたレビューは、

 ・ 物江潤『ネトウヨとパヨク』(新潮新書)
 ・ 先崎彰容『バッシング論』(新潮新書)
 ・ 津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』(ハヤカワ文庫)

の3冊であり、いずれも直接間接に「政治」がからむ書籍である(『ヒッキーヒッキーシェイク』の場合は、著者が現政権批判をして、単行本の版元から文庫を刊行できなくなった)。

私が酷評を書くのは、なにも「政治」本ばかりではなく、「宗教」本ではさらに辛辣なこともしばしばなのだが、そちらで「不掲載」になったことは一度もない。
Amazonも「政治」関連についてはナーバスになっている、ということなのであろう。

初出:2019年9月13日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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