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カレー沢薫 『ひとりでしにたい』第2巻 : 「己を知り敵を知れば、百戦危うからず」

書評:カレー沢薫『ひとりでしにたい』第2巻(モーニングKC・講談社)

当然のことながら、題材の新鮮さにおいては、第1巻にはおよばない。つまり、世間で言う「孤独死」の問題を考えるキッカケの提供という批評性では前巻には及ばないものの、しかし、いろいろ勉強になる情報が詰め込まれており、楽しく読める「お勉強マンガ」だ。

すでに定年前の私は、20年ほど前に父を急死で亡くしており、葬儀の手配など一連の手続きの経験もしている。また、残った母と数年前までは二人で同居していたが、足腰が弱ってトイレに一人で行けなくなった段階で、母には老人介護施設に入ってもらった。独身であり、家を開けることも多い仕事に就いている私の場合、仕事を辞めて介護に専念するなどという選択肢は、現実的にはあり得ないものだった。
幸いは母の場合は、入所を拒んでゴネるようなことはなかったし、相応の介護認定も受けていたから、デイサービスに来てくれていた施設が引き受けてくれるというので、比較的スムーズにことを進めることができた。

こんな具合で、老親に関する一通りの経験したけれども、それほど苦労をしたという感じではない。もっとも、私はもともと何かと慎重な方であり、最悪の場合を考えて手を打つことをしたので、その程度の苦労で済んだのかもしれない。

例えば、母と同居していた頃、もともと短気な私は、母に相当イライラさせられて、怪我をさせるようなことはないものの、つい手が出てしまうようなことも、正直あった。それで「このままでは(母のためにも、自分のためにも)マズイな」と判断して、ケア・マネジャーにも正直にそうした話をし、「このまま家で面倒は見られない」と訴えたのだ。
ある意味では、これはケア・マネジャーや役所に対する「脅し」にもなっていただろうし、頭の片隅にはそうした計算もたしかにあった。「この話を聞いては、無視はできまい」ということである。

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言い換えれば、「介護殺人」などという最悪の悲劇が起こってしまうのは、よく言われるように、介護者が「ギブアップ」できないからである。
それは、良く言えば「頑張りすぎ」だし、悪く言えば「自身の力量を知らず、現実が見えていない」とも言えるだろう。「ギブアップしない」のではなく、「ギブアップできない」というのは、決して褒められたことではないのである。

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たしかに「親の面倒をみる子供」は立派だ。しかし、それは、それを「やり遂げられてこそ」であって、出来ないことに手を出すのは無茶であり、ある意味では「無責任」だ。「頑張ってみたけど、失敗でした」では済まないことにもなりかねないのだから、あまり自分の力量や理想を高く見積もり過ぎず買い被らず、10歩手前で「ギブアップ」する方が賢明だし、それも一つの責任の取り方である。

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少々言いにくいことだが、一番いけないのは「見栄をはる」ことなのではないかと思う。
本作でも「親の老後は、基本的に親に任すべき」という意見が出ていたが、状況的あるいは感情的に、そうはいかない場合が現実には多くとも、やはり基本的な考え方としては「親の老後の心配は、親自身に任せるべき」だと思う。無理をして、自分自身の責任まで取れなくなり、自暴自棄になって全てをぶち壊してしまう、ぶち投げてしまうというのは、本末転倒でしかない。言葉はキツイが、結局のところ、それは「無責任」の一種になってしまうからである。

だから、世間に流通する「美談」や「キレイゴト」に惑わされてはいけない。また「見栄」を張るのも良くないし、自分をそういう「聖人君子」だなどと、半ば自己暗示をかけてまで頑張るのも良くない。
人間とは、弱いものなのだ。「聖人君子」とは、滅多にいないからこそ、賛美の対象となるのだから、自分がそこまでご立派な存在でなくても、別に罪ではない。

くりかえすが「世間の目」や「他人の評価」なんか、気にする必要はない。
自身に奢ることなく、実力相応に頑張れば、あとは「積極的に助けを求めるべき」なのだ。

「己を知り敵を知れば、百戦危うからず」とは、そういう「知恵の言葉」なのである。

初出:2021年1月23日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年2月4日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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 【補記】(2021.9.30)

本作第3巻も読みましたが、普通の「就活ハウツー漫画」っぽくなってきたので、続きを読む気が無くなり、レビューもかきませんでした。

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