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京極夏彦 『今昔百鬼拾遺 河童』 : 本格ミステリにおける〈人間という化け物〉

書評:京極夏彦『今昔百鬼拾遺 河童』(角川文庫)

愉快な「河童談義」で開幕する本作は、しかし、本格ミステリとしては「破格」の作品なのではないだろうか。
件の「河童談義」でも語られるとおり、「河童」というものは、種々の条件によって、そのイメージと本質を異にする「特定できないもの」のようである。

「河童」とは、一般には「頭にお皿があって、嘴があって、背中には甲羅があって、手足には水かきがあって、全身ほぼ緑色でヌルヌルした、両生類的な人型の水棲生物」という印象があるが、これは現代的にかなり整理され一般化したイメージであって、本作でも紹介されているとおり、「河童」というのは、そう簡単に、その形態や性格を特定できる存在ではない。
と言うか、もともと存在していないのだから、多様なイメージと一般的なイメージが重なり合いながら存在するだけであって、実在しないものを特定できるわけがないのである(キリスト教の「神」ですら同断なのだ)。

しかし、これは「人間」についてだって、おおよそのところは同じではないだろうか。
「人間」の場合は、実在する生物種なので、生物学的に規定することは可能だけれど、しかし「典型的な人間」というのは存在しない。
個体は、個々バラバラで、同じ個体は二つとしてないし、その同じ個体ですら、時間の経過とともに成長したり老化したりして、一時たりとも、まったく同じものとしては存在していない。

つまり「人間とは」とか「誰某(個人)とは」と語られるものとは、語られている対象を抽象化したものでしかなく、それそのものではないのである。

ところが、「本格ミステリ」という文芸ジャンルにおいては、基本的には「人間は人間である」し「誰某は誰某である」ということになっている。

例えば、人間にはとうてい不可能と見える「密室殺人(などの不可能犯罪)」が描かれる場合、そこに「壁抜け能力のある宇宙人」や「時間をあやつる超能力者」が、何の説明も無しに登場することは許されない。そんな「お約束やぶり」の存在を認めてしまったら、そもそも「不可能犯罪」が成立しなくなってしまうからだ。
だから、「宇宙人」や「超能力者」や「ゾンビ」を登場させるのであれば、その「世界観」をあらかじめ読者に提示し、彼らには「なにが可能で、なにが不可能か」を説明しておかなくてはならない。そうでないと「本格ミステリ」のタテマエである「作者と読者の、フェアな知恵比べ」が成立しなくなってしまう。

言い変えれば、W.H.オーデンが「罪の牧師館 一一探偵小説についてのノート」(鈴木幸夫編訳『推理小説の詩学』所収)の中で指摘したように、「本格ミステリ」における登場人物は、ギリシャ悲劇の登場人物と同様に、「性格が変わらない」のだ。変わってはならないのである。
冷酷だった人物が人間愛に満ちた人に変貌したり、綿密な計画を立てる機械のような犯罪者が理由もなく気まぐれな行動を始める、なんてことがあってはならない。そんなことを認めてしまうと、名探偵の「論理的推理」は成立しなくなるからである。

「本格ミステリ」においては、「偶然」の利用は一度だけとされている。これも、そう何度も利用されては「論理的推理」など不可能だからだが、そんな一度だけは許される「偶然」よりも、「登場人物の性格の変化」は、もっとタチが悪いものなのであろう。

しかし、当然のことながら、現実の世界では「偶然は一度」とは限らないし、人間の性格も変わる。
「偶然」がめったやたらと発生しないように、「人間の性格」もそうコロコロ変わるものではないけれども、やはり現実世界も人間も、『ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』(鴨長明『方丈記』)であり、一見おなじように見えても、決して同じではなく、常に変化しているのである。

だから、「本格ミステリ」が描く人間とは、実のところ「化け物」なのだ。

その意味では、本作が描いた人物は、「河童」ではなく「人間」であった。そのため「本格ミステリ」としてはいささか収まりが悪いのだが、だからと言って、ほとんどの読者が気づきもしないのに、わざわざ本作を「アンチ・ミステリ」などと大仰に呼ばずとも、これはこれで悪くはないと、私は斯様に思うのである。

初出:2020年8月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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