見出し画像

プラ・アキラ・アマロー (笹倉明) 『出家への道 苦の果てに出逢った タイ仏教』 : 独りよがりな 〈語りと悟り〉

書評:プラ・アキラ・アマロー(笹倉明)『出家への道 苦の果てに出逢ったタイ仏教』(幻冬舎新書)

先行のレビュアー(カメ、ヒマワリ、Amazonカスタマー、の三氏)が、それぞれに指摘しているとおりで、「出家してすでに4年。今の私には、昔の自身の愚かさがハッキリと見えるようになったので、それを語ろう」という趣旨の、本書における著者の自分語りは、残念ながら「今もなお、変わらずに続く、その勘違いぶり」を示すものでしかなく、極めて「イタい」内容となっている。

「懲りずに愚行を繰り返す人の内面とは、こういうものなのか」と、その意味でなら、教えられ裨益されるところも少なくはないのだが、著者の語ること自体が素晴らしいというわけではないのだから、本書に高い点を与えることは出来ない。
本書はあくまでも、「症例研究の素材」であり「他山の石」でしかないのだ。

著者のダメなところは、「(自分では)わかってるつもり」。これである。

著者は、決して頭の悪い人ではない。あれこれに目配りをして、抜け目なく配慮する。つまり、文体としては「私はこう思う。しかし、無論、これは私の考え方であって、それがすべてではないことは承知しているし、例外も多くあるだろう。しかしながら、私の見方が、ことの本質を外しているとまでは言えないとも思う。なぜならば、例えば、こうした事例において、私の考えの妥当性は、たしかに裏づけられ得るからだ」といった具合である。
つまり、一方的に自論を展開するのではなく、予想される「反論」に対して、先回り的に「それもこれもすべて想定済みである」と蓋をしていって、自論の正当性を担保しようとするのである。

しかし、著者の問題は、自論そのものも、想定される反論も、すべてにおいて「浅い」という点なのだ。
広く満遍なく押さえてはいるものの、それぞれの掘り下げが極めて浅く、「ああ、そうですか。そういう考え方もありますね」という感想しか持てない。

例えば、著者は「戦後教育の弊害」や「団塊の世代の学生運動の問題」などを論じているのだが、それが極めて浅い。
著者が、「戦後占領史」関連資料を含む「戦後教育」問題関連書を5冊以上読んでいるとはとうてい思えないし、「学生運動史」「全共闘史」「左翼思想史」「1968年論」「連合赤軍事件」関連書あるいはマルクスを読み、自分なりに「他者の理屈」を研究検討した上での判断を語っているとも思えない。
著者は、本書の中で「常に、次の作品のテーマを探していた」と語っているが、その原因は、こうした「掘り下げの欠如」にあると見ていいだろう。ちゃんと掘り下げておれば、テーマに困ることなど、決して無いのである。

ともあれ、全共闘世代の作家でありながら、このあたりの教養をまともに持たず、それでも平気でそれを論じられるという、厚顔なまでの「鈍感さ」というのは、特筆に値するものだと言えよう。
そして、著者特有のこうした「鈍感さ」は、出家する前に数年間「勉強」した知識と、たかだか4年ほどの修行経験で、「自身の宗派の教えを、一般に向けて平易に語る本を書こう」などと考える、その自覚のない「思い上がり」(と、著述的名声への、無自覚な未練)にも明らかなのである。

著者は本書で「私の長年の愚かな漂流人生の原因は、生きる上での芯(となり支え)となるものを持たなかったが故であるのだが、今はその芯としての信仰を持つことができた」という趣旨のことを語り、今は「芯を持った人間」つまり「生まれ変わって、人並みになった人間」として語っている(つもりな)のだが、しかし、それが「勘違い」でしかないということは、私を含む4人のレビュアー全員の目に明らかなのだ。それがあまりに露骨すぎるのである。

著者の勘違いは、容易に「自身を客観視できる」と考えている点にある。
「私を対象化して観察する私」という「メタレベル」に立って、自身の欠点を発見、分析、反省すれば、それで自分の欠点が乗り越えられると、そう能天気に考えている。
つまり「客観的に分析して、自他に説明できるようになれば、それで基本的に欠点は乗り越えられる」と感じているのだが、言うまでもなく「理解すること」と「乗り越えること」とは、まったくの別物である。

例えば、覚醒剤中毒者が「私は覚醒剤中毒に陥っている。これは、私が自分に甘い現実逃避者だったからであり、自分のためにもそれを乗り越える必要がある。しかし、私の脳は、すでに覚醒剤の影響を受けて、物理的な変容をきたしている部分があるため、その回復・乗り越えは、決して容易なことではない」と「正しく理解」していたとしても、そしてその上で「乗り越えの意志」を持っていたとしても、それは所詮「出発点」でしかなく、乗り越えでもなんでもない。

ところが、本書の著者は「乗り越え」の出発点に立った段階で、すでに乗り越えた気分になっており、だからこそ、その「成功例」は、他人に語る価値がある、などと思っているのだ。

つまり、こんな人だからこそ、同じような失敗を懲りずに繰り返すことになる。
彼の「自己省察」は、いつでも自身の表面を撫でて過ぎるばかりで、穴を穿ってその本質に届くことなど、決してないからなのだ。

先にも書いたとおり、「私を対象化して観察する私」という「メタレベル」というのは、所詮は「(方法論的)虚構」でしかない。「私を対象化して観察する私」とは、まさに「対象となっている、問題多き私(本人)」であって、別物ではない。つまり「問題ある私が、同じ問題を持つ私を、正しく客観視する」ことなど、基本的にはできない。
しかし、そうした「困難性」、つまり「自己言及のジレンマ」への「厳しい自覚」くらいは、最低限持っていて初めて、多少なりともそうした矛盾や困難に爪を立てることもできるのだが、本書の著者の場合は、まさに「三つ子の魂百まで」で、今も昔も変わらずに、そうした厳しい「自己懐疑」を欠いている。本人が、それに気づいていないからこそ、傍目八目の傍目には、「絶望的」なものとして、それがハッキリと映るのである。

私は昔、ミステリファンだったので、著者が『漂流裁判』(1988年)で第6回サントリーミステリー大賞受賞し、翌年の長編『遠い国からの殺人者』で第101回直木賞を受賞したというのも、同時代のこととしてよく知っている。たぶん、どちらも当時に購入しているはずだが、しかし、いまだに読んではいない。著者の本を読むのは、これが初めてで、言うなれば、本書の著者・笹倉明は、私に取っては長年の懸案だった。

なぜ読めなかったのかと言えば、それは私の「ミステリ」に関する趣味が「トリックとロジックの本格ミステリ」に偏っていたというのが大きい。
私がミステリを読み始めたのは1985年前後で、その頃に中井英夫『虚無への供物』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』といった、「三大奇書」とも呼ばれる異色のミステリを読み、それらに惚れ込んだ。そして、1987年に『十角館の殺人』でデビューした綾辻行人に始まる「新本格ミステリ」ブームの潮流に巻き込まれて、ミステリの世界にどっぷりとハマった。
つまり、社会的告発に重きをおく「社会派ミステリ」ブームの残響がまだ色濃く残っていた時代であり、「(趣味性の強い)探偵小説の風格を残したミステリ」が皆無と言ってよかった当時にあって、私は、懐古趣味があり趣味性の強い「新本格ミステリ」の台頭に期待した一人だったのである。

しかし、「ミステリ」の中では、「社会派ミステリ」でも「ハードボイルド」でも「冒険小説」でもなく、「本格ミステリ」が好きだとは言え、決して「本格ミステリ」だけを読んでいたわけではない。
私は、ミステリ作家で評論家でもある笠井潔の影響から、「ミステリ」という文学ジャンルそのものに対して興味を持っていたので、多少なりとも「本格ミステリ」以外の作品も読んだし、「社会派ミステリ」の意義も理解していた。だから、「社会派ミステリ」に位置づけられるであろう、評判も高かった『漂流裁判』や『遠い国からの殺人者』も読もう、読まねばならないと、そう思っていたのである。

しかしその一方で、私の読みたい本は、どんどん広がっていった。
例えば、笠井潔の長編ミステリ『哲学者の密室』を読むために、登場人物のモデルとなったハイデガーの主著『存在と時間』を読んだし、『哲学者の密室』の参考文献に上げられていた、西谷修『不死のワンダーランド』、フィリップ・ラクー=ラバルト『政治という虚構』、ジャン-フランソワ・リオタール『ハイデガーと「ユダヤ人」』、合田正人『レヴィナス 希望の揺籃』といった本まで読んだ。私はそういう人間なのである。
そのため、もともとそれほど惹かれていたわけではなかった作品は、どうしても後回しになり、積読の山に埋もれさせることになったのである。

そして、今の私は、「宗教」に興味のある「無神論者」として、趣味で「キリスト教」を研究しているような、相変わらずの酔狂な人間だ。だが、だからこそ「あの笹倉明が、タイで出家した」と聞けば興味を持ったし、それで本書を手に取り、長年の懸案に着手できたのである。
一一しかし、その結果はどうであったか。

残念ながら、私が長年気にかけていた「小説家・笹倉明」は、「あえて読むまでの価値がない作家」だと判明した。
この人には、「純文学」と「エンタメ」とを問わず、読むに値する「深さ」をもった小説を書けないことが、本書においてハッキリと確認できたからである。

ご本人も書いているとおり、『漂流裁判』や『遠い国からの殺人者』への高い評価は、その多くを「扱った素材の力」に依っていたのであろう。
「小説」という形式に書き換えられなくても、つまり笹倉明がリライトしなくても、扱われた事件そのものに、もとから非凡な「人間の深みの垣間みさせるドラマ性」が備わっていたのではないかと思う。

言い変えれば、笹倉明の場合、「素材が薄っぺら」であれば、それについて書いた著書もまた、おのずと「薄っぺら」にならざるを得ないのであり、その実例の一つが、まさに本書であったのだ。

初出:2020年2月4日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○
























 ○ ○ ○








 ○ ○ ○



 ○ ○ ○





この記事が参加している募集

読書感想文