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是枝裕和監督 『ベイビー・ブローカー』 :〈祈り〉の世界

映画評:是枝裕和監督『ベイビー・ブローカー』

カンヌ国際映画祭でパルム・ドール(大賞)を受賞した『万引き家族』の是枝裕和監督が、韓国の名優ソン・ガンホを迎え、韓国で製作した作品。
この作品も、カンヌ国際映画祭に出品され、「パルム・ドール」は逃したものの、ソン・ガンホが「(主演)男優賞」を受賞した。

本作も、『万引き家族』と同様に、「疑似家族」をテーマに据えた作品で、とても「温かく」、また完成度の高い作品である。
だが、本作が『万引き家族』との共通点を多く持ち、完成度の高い作品でありながら、しかし、パルム・ドールの受賞に至らなかった理由は、わりあいハッキリしていると思う。それは「苦さ」の欠如である。

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タイトルのとおり、本作は「赤ちゃん販売(人身売買)業者」の話なのだが、犯人の2人組は、どちらも犯罪者ではあれ、悪人ではない。金目当てで赤ちゃんを売り飛ばす商売だと言っても、その子の幸せを願ってはいる。
また、赤ちゃんのウソンを捨てた母親のソヨンも、決して産んだ赤ちゃんに愛情を持っていない冷たい人でもなければ、バカ親というわけではなく、事情があって、いったんはウソンを捨てたものの、翌日には引き取りに行ったような女性である。

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つまり、彼らは、人間的には、いずれも「人並み以上に、良い人」なのだが、その行為は、やはり「犯罪」なのだ。だからこそ、彼らは、自分のしていることに、ある種の「合理的正当性=自己正当化の論理」を持ちながらも、やはり「やましさ」や「後ろめたさ」を拭いきれないでいる。彼らは、罪を犯しながらも、悪人にはなりきれない人たちなのだ。

そんな彼らが、ウソンの「育ての親」となるべき「買い手」を探して一緒に旅をする中で「疑似家族」を形成し、その過程で、それぞれの「不幸な出生」や「報われない人生」に対して、それでも「生まれたことへの肯定性」を見出していくお話だと、そう大雑把にまとめることができるだろう。

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だから、この作品は、基本的に「悪人」が登場しない。屈折を抱える人たちばかりだけれど、その屈折が、ウソンとの旅を通して、さまざまなかたちで解消されるのだから、ある意味では、最初から最後まで大筋では「幸福な物語」だと言えるし、映画としては「静謐な温かさ」をたたえた、とても感じの良い、気持ちよく観られる作品だと言えるだろう。つまり『万引き家族』のような「苦さ」が無いのだ。

無論これは、是枝裕和監督も自覚的にそうしたのである。
なぜなら、是枝監督がこの映画を撮る出発点となったのは、赤ちゃんボックスに捨てられる子供という重い現実であり、その「不幸」を、「不幸だ」で終わらせたくない、という気持ちであったからだ。

つまり、犯罪者が「悪人」で、子供を捨てる親は「酷い奴」という「世間一般の評価」は、「間違い」ではないにしても、「一面的」である、ということなのだ。それを言いたかった。

たしかに彼らの「行為」は許されないことだけれど、しかしその一点をして、彼らの「全人格」や「全人生」を否定するのは間違いだ。人の人生には、自分の意思や努力ではどうにもならない、さまざまな外的要因が存在し、思いがけなく発生する。そんな「不運」な外的条件の中に置かれたら、誰だって、彼らのような「行為」に走らざるを得ない。
例えば、戦争になって出兵し、目の前に銃をかまえた敵兵がいれば、否応なくその敵を「殺さざるを得ない」というのと同じことだ。
「行為」自体は「人殺し」だけれども、戦争の場合は、その「状況」が勘案され、国家によって「免責」される。でも、普通の犯罪は、「国家」のためになされたものではないから、多少の「情状判断」はあっても、「犯罪」であるという認定自体は覆されず、「免責」されることもない。だが、結局、やっていることは同じなのである。

だから、是枝監督としては「罪を憎んで人を憎まず」で、犯罪者も、その「行為(罪)」だけで「全人格を否定する」のではなく、肯定すべき部分は肯定すべきだと考え、そうした「肯定的側面」を映画で描くわけなのだが、そうすると映画の中の犯罪者は「良い人」にしか見えない、ということにもなってしまう。

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そして、こうした「ジレンマ」は、「捨てられた子供」についても同じだ。

「捨てられた子供」は、悲惨であり悲劇である、というのは間違いない。しかし「それが全てではないだろう。彼らの人生は、ただ悲惨なだけなのか、誰からも祝福を受けないものなのか、そんなことはない、彼らは、その生まれがどんなものであろうと、生まれたということだけで祝福されるべき側面があるはずだ」というのが是枝監督の視点であり、これ自体は間違いではない。

しかし、その面を描くと、映画としては「捨てられた子供の不幸」の重さが伝わらないものになってしまうことも事実なのだ。

なぜ世間の人々が、子供を捨てる親や犯罪者に対し、あれだけ激怒し憎悪をするのか。それもまた根拠のないことではない。だが、そうした見方が「多数派」であるからこそ、是枝監督は、あえて「少数派」の視点で物語を描き、その結果として「捨てられた子供の不幸」の「現実」が描かれない作品になってしまっているのである。

このように、本作『ベイビー・ブローカー』は、単なる「きれいごと」を描いた作品ではない。
そうではなく、世間の目の行き届かない側面に光を当てて描いた作品だと、そう言えるのだが、その結果、世間の大多数が見ている、本来「見えやすい現実」の側面が、陰に入ってしまって、見えなくなっているのだ。だから、これはこれで「これで良いのか?」という疑問を、観る者の中に生じさせてしまうのである。

したがって、問題となるのは、作劇上のバランスと葛藤の生成いうことになるのではないか。
たしかに「世間の目の行き届かない側面に光を当てて描く作品」であることは重要なのだが、その結果として、世間が当たり前に見ている「現実的側面」が十分に描ききれないとなると、そこには「結局のところこれは、現実逃避ではないのか」という疑問が生じざるを得ないからだ。

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だから、難しいことではあれ、必要な作劇とは、「悲惨な現実」を十二分に描いた上で、それでも、その奥にある「救い」を剔抉して見せて、力強く「これもまた現実である」と訴えることなのではないだろうか。

是枝裕和監督の、さらなる奮闘に期待したい。

(2022年7月31日)

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