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山本昭宏『原子力の精神史 ――〈核〉と日本の現在地』 : 誰でもなく、自分自身の〈忘却〉に抗して

書評:山本昭宏『原子力の精神史 ――〈核〉と日本の現在地』(集英社新書)

あの東日本大震災から、そして福島第一原発事故から、早10年。私はずっと大阪在住で、阪神淡路大震災の経験者だから、東日本大震災には「最近」という印象がどこかにある。

先日、榊原崇仁『福島が沈黙した日 原発事故と甲状腺被ばく』(集英社新書)を読んで、レビューを書いた時には、今年であれから10年だとは、そこに書かれていてすらピンと来ず、本書を購入した際にもまだ気づいていなかった。その後、書店に福島原発事故関係のハードカバーの新刊がたくさん並んでいるのを見、その帯に記された「10年」という文字を目にして、初めて「ああ、もう10年なのか」と気づいたのだ。

前述の榊原崇仁『福島が沈黙した日 原発事故と甲状腺被ばく』が、原発事故後の長年の追跡取材で明らかになった事実を公表してその理不尽を告発する、極めて闘争的な(すばらしい)内容であったのに対し、本書は、福島原発事故にいたる以前の、日本の原発行政や日本人の原子力に対する意識から、最近の動向までを俯瞰して総括し、私たちに「原子力」に対する根源的思考を、新たに促そうとしている書物だと言えるだろう。

『 本書では、核エネルギーを利用するシステムを批判的に考察するために、論点を整理し、過去を振り返り、現場を確認してきた。
 2011年3月11日以降、私たちの核に関する認識は変わっただろうか。』(P210「おわりに」より)

本書において多角的に取り上げられる論点については、読者により感じられる「重み」にそれぞれ違いがあることだろう。そこで私は、私個人に強く響いたいくつかの論点にしぼって、思うところを書いてみたい。

 ○ ○ ○

まずは、本書第三章「日本と核の現在地 一一 3・11以後」第3節「フクシマを語るということ」で取り上げられる、思想家・東浩紀と社会学者・開沼博の、「フクシマを語る」ことについての意見対立だ。

平たく言えば、東は「フクシマを風化忘却させないために」は、どうすれば良いか、という問題意識から、「福島第一原発観光地化計画」という提案を行った。この、やや挑発的に「軽い」表現は、もちろん意図的なものだ。
東日本大震災が、そして福島第一原発事故が、福島の人々に残した傷痕の大きさ深さに配慮すればこそ、多くの人は、その「歴史的事実」の前に、言葉を失い、目を逸らしてしまいがちだ。「よそ者が軽々に語ることなどできない」と思うからこそ、人は沈黙し、その沈黙がつらいから忘却しようとする。しかし、それで良いのか。

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無論、良かろうはずがない。同じあやまちをくりかえし、新たな犠牲者を出さないためにも、私たちはその悲惨な現実を、犠牲者たちの悲惨な経験を、直視し、それを我がこととして血肉化していかねばならない。しかし、具体的にはどうすればいいのか。

私個人については、とにかく忘れないためにも、常に情報に接し続ける、関連書を読み続けるということを自身に課したのだが、実際のところ、そんなことすらできる人間は、百人に一人もいないだろう。だから、より多くの人たちの「フクシマの忘却」に抗するために、敷居を低くするアイデアとして「福島第一原発観光地化計画」ということが提案されたのだ。「見ないこと、避けること、忘却することよりは、興味本位でも良いから、この現実に接して欲しい。そうすれば、きっと気づきがあるはずだ」というのが、東浩紀の発想であり提案だったと言えるだろう。

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ところが、それに対して、福島出身の「地元学者」である開沼博は、そうした立場に批判的であった。

『 東京から福島第一原発の事故の風化に抗おうとしていた東は、ある書物に「大きなとまどい」を覚えた。その書物は、ともに「福島第一原発観光地計画」に関わった社会学者・開沼博の著書『はじめての福島学』だった。東がとまどったのは、次のような記述だった。
 開沼は、『はじめての福島学』のなかで、福島をめぐる言説に無理解と差別があることや、被災地・被災者を「食い物」にするような活動があることを徹底して批判した。そのうえで、開沼は、福島の人びとに迷惑をかけないことが大事だとし、県外の人間の「善意」が「ありがた迷惑」になることもあると主張した。
 これに対して東は、開沼が「善意が福島県に利益をもたらすのかどうか、そして県民がそれを利益だと感じるかどうか、それだけしか基準を提示していない」とし、県外の人間はあの事故について黙るしかないのか、と自問している(『テーマパークがする地球』)。
 開沼は、「福島」の不利益やいわれのない差別を減らすことを第一の目的にして、軽々しく印象だけで「福島」を語る人間を拒絶している。その意味では、開沼が問題視する対象は限定的なものだ。他方で、東は、世界史的出来事を語り継いでいくにはむしろ狭義の当事者以外の人間を巻き込んでいく場所が必要だと考えており、それゆえに「福島」に多様な問題を投げ込んで議論の活性化を図ってきた。あえて言えば、問題を拡大しようとしたのだ。おそらく、開沼が「ありがた迷惑」と拒絶しているのは、根拠もなく印象だけで「福島」をわかった気になる人間なのであって、そこには東らは含まれていないはずだ。両者は初めからすれ違っていたとの感想を禁じ得ない。なお、貝沼に対する東の疑問を受けて、『毎日新聞』の夕刊で2015年8月3日から、東と開沼の往復書簡が企画されたが、二人の対応はすれ違いに終わった。』(P190~191)

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ここで、本書著者である山本昭宏は『両者は初めからすれ違っていたとの感想を禁じ得ない。』と書いているが、これは誤読誤解である。
つまり、二人の意見は『すれ違って』などおらず、きちんとぶつかっている。だからこそ事後的に「往復書簡」を交わしても、相互理解には至らなかったのだ。両者の対立は、山本の言うような表面的なものではなく、どうしても譲れない本質的なものであったのだ。

どういうことか。
要は、東が開沼に対し「疑義」というかたちで加えたを批判とは「誰が当事者なのか。誰に当事者を決める権利があるのか」ということだからである。

なるほど、開沼の意見は「福島県民」の立場として「わかりやすい」し、現実問題として、そう言いたくなる気持ちもよくわかる。
しかし、では、「福島県民以外」は「当事者ではない(=非当事者)」のか。当事者でないとなれば「本当のことはわからない」から「わかったつもりになるな」「発言するな」「黙っているべきだ」ということになるのか。そして「同情するなら、黙って金だけ置いていけ」ということなのか。

しかし、客観的に見て、福島第一原発事故の「被害当事者」というのは、一様ではない。
何もかも失ったに等しい人もいれば、実害はほとんどないといった人も当然いる。そうした「多様な人たち」が、ただ「福島県民」というだけで「当事者」になり、福島から一歩そとに出た所に住む「県外の人間」は、それでもう「被害当事者ではない(=非被害当事者)」と言えるのか。

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無論、そんなことは言えない。
隣接県の住民はどうか。隣接県の隣接県の住民はどうか。そのまた隣接県の住民はどうなのか……。東京の住民はどうか、大阪の住民はどうか、沖縄の住民はどうか、韓国の住民はどうか。
果たして「福島県民」だけが被害者なのか。「日本人」だけが被害者なのか。

そして「加害者」は「日本政府と原発関連企業」だけなのか。実のところ「一億総加害者」ではないのか。

先の戦争において、日本の一般国民は「加害者は、政府と軍部であり、私たち一般国民は、被害者だ」と考えた人が多かったが、日本に侵略された東アジアの人たちを「被害者」だとするならば、日本人は「一億総加害者」だったのではないか。

つまり「日本の原発事故」において、責任の濃淡はあるにせよ、日本国民の誰もが「被害者であり加害者」だったのではないのか。

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私は何も、加害者責任を「水増しで薄めよう」としているのではない。ただ、自身を「純粋無垢な(なんの責任もない)被害者」だと主張する人たち、だから「我々に意見(批評)するな」という「特権階級」扱いを要求する人たちには、胡散臭さを感じるのだ。

また、開沼博は、自身をまるで「福島県民」を代表するものであるかのように語るけれど、彼個人の「被害」は、どの程度のものなのか。そして、その被害程度のゆえに、彼は自身で自身を「被害当事者」のうちに含め(被害者認定し)、その「代表」であると自認して(代表認定して)、自身を「福島言論人」として売り出し、今もそれで食っている彼は、果たして本当に「(名も無き)一般の福島県民被害者」を代表することなどできるのか。その「資格」があるのか。「発言できない人」や「発言しない人」のことが、「他人」のこととは言え、開沼は「自分ならわかる」と言うのか。

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つまり、「被害者の権利」を「福島県民」が独占することもできなければ、「福島県民の意見」を代弁する権利を、開沼が独占することもできない。
そうした「代弁者利権」にも似たものを、「地元学者」だというだけで排他的に占有するなどという胡散くさいことを、開沼にだけ許される道理などないのである。

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一一とまあ、原理的に批判してみたけれど、私はまだ開沼博の著作を1冊も読んでいないので、誤解の部分はあるかもしれない。しかし、原則的なところは外していないとも思っているから、著作を読むまで、しばし待ってもらうことにしよう。

ともあれ、東浩紀が問題としているのは、本書著者・山本明宏の言う『狭義の被害者』とか「広義の被害者」といったことではなく、「そもそも被害者に、線引きなど可能なのか」という、根源的な批判である。
言い換えれば「誰もが被害者であり加害者であるとすれば、誰もが批判者であり被批判者でなければならない。誰もが、告発者であり、被告発者でなければならない。そうした場合、被害者を傷づけるから黙っていろ、という理屈は通用しない」ということなのだ。

だが、この「大原則」を認めてしまえば、開沼博にも、「福島県民」にさえ、特権は与えられず、彼らも批評批判の対象になってしまう。
それはあまりにも過酷だろうとは言え、だからといって、開沼のように特権的に「批評批判は一切禁止」と命ずる権限を、特定の人が持つことなど許されないのである。

つまり、「被害者が、不当に傷つけられる」ことはある。だが「被害者が、その加害者性において、正当に批判される」ことだってあるのだし、それは必要なことなのだ。
一人の人間の中には「加害者性と被害者性が同居」していて、どちらか一方ではない以上、「被害者としての、告発者の立場一方の人」もいなければ、「加害者として、被告発者の立場一方の人」も、またいない。それが「動かせない現実」なのである。
だからこそ、この人間社会では「時に、人を傷つけてもなお」なさねばならないことがあるし、「時に、傷つけられてもなお」堪えねばならないことがある。それは「お互い様」であり、お互いのために、是非とも必要なことなのだ。

例えば、相澤冬樹の著書『真実をつかむ 調べて聞いて書く技術』(角川新書)のレビューで、私は、下のように書いた。
(NHKの記者だった相澤は、「森友問題」のスクープを連発したせいで、かえって左遷人事により現場を外され、そのせいでNHKを辞めてまで現場に居続け、その結果として、「文書改ざん」をやらされたせいで自殺した「近畿財務局職員だった赤木俊夫さんの告発手記の公表」を実現した人である)

『『 他人に迷惑をかけない、嫌われないようにする、というのは美徳である。だけど記者の仕事、取材というのは、事実に迫ろうとすると、どうしても誰かに迷惑をかける、あるいは人の心に踏み込んで、悲しませたり嫌われたりする部分がある。そんな時「迷惑をかけるから」「嫌われるから」と言って取材をやめていたら、事実に迫れるだろうか?』(P160)

ここが、本書の肝であろう。
(※ 他の部分で語られる)「人間関係が大切」だとか「思いやり」だとか「フォローが必要」だとかいった話(※ だけ)なら、誰でも賛成し支持してくれる。だが「時に人を傷つけてでも、やらなければならないことがある」と言った時に、実際には多くの人は「それは独善でしょう」「一度傷ついたものは、元には戻らない。その責任をどう取ると言うのですか」と厳しく責任追及をしてくるはずだが、事実、実際のところ、「責任」など取りきれるものではないのである。だが、それでもやらなければならないことはあるし、やらなければならない時もある。

言い換えれば、それをやらない「傍観者」だけが、安全圏から、自分に跳ね返ってくることのない「無難な非難」だけを(選択的に)することができるのである。』(「※」は、引用者補足)

「フクシマ言論」の問題において、開沼博の立場とは、まさにこの「安全圏からの批判」である。「特権階級としての批判」なのだ。
だからこそ、東浩紀の批判がやや及び腰だとは言え、言っていること自体は、東の方がまったく正しい。一方、開沼の方は「特権」を捨てられないからこそ、そして捨てないからこそ、「すれ違い」で済ませることも出来たのである。

開沼博は無論、「福島県民」にしたところで、「言論統制」をする権限など持たない。
「あなたは福島のことをよく理解しているから発言してもいいが、そっちのあなたは全然わかっていないから、発言してはならない。あなたの発言は、人を傷つけるだけで、何のメリットもないものだと認定したので、あなたは黙っていなさい」などと決めつける権利など、誰にもないのである。

もちろん、心ない言葉に傷つけられることはあるだろう。しかし、それに対しては、個々に反論するか、耐えるしかない。味噌も糞も一緒くたにして「よそ者は黙っていろ」という権利権力など、誰も持ってはいけないのだ。なぜなら「純粋無垢なよそ者(加害者)」もいなければ「純粋無垢な身内(被害者)」もいないからである。

だから、東浩紀の「広義の被害者」論と、開沼博の「狭義の被害者」論は、本書著者の山本が言うような「範囲認定の程度」問題ではない。「線引き不能」という原理的な問題なのだ。だからこそ、両者は「折り合えなかった」のである。

 ○ ○ ○

私が書いておきたいことの、残り2つのうちの一方は、第三章「日本と核の現在地 一一 3・11以後」第4節「国民統合と差別」で、取り上げられる「差別」問題だ。

『 こうした福島県民への差別とは別に、インターネット上では放射線被ばくのリスクを大きく見積もる人びとに対する差別的言辞が目立った。西日本へと自主的に避難した人びとや、福島産の食品を避ける人びとに対して、「放射脳」というネットスラングが投げつけられるようになった。こうしたネット上での中傷は、書き込んでいる当人の日常回帰願望が他者への攻撃として表面化したものであろう。あるいは、自分が心配ないと思っている事態を他者が不安視していると知ると、一種の心理的防衛機制から攻撃へと移るのかもしれない。』(P201)

「放射脳」一一 今となっては、懐かしい言葉である。
当時、私もこの「差別語」を投げつけられた、『射線被ばくのリスクを大きく見積もる人』の一人だった。だが、自分を「被差別者」だとは思っていなかった。単に「誹謗中傷」されていると感じて、腹を立てていただけだ。そもそも、私の方が『射線被ばくのリスクを大きく見積もる人』であったがために「復興の邪魔立てをする人」であり、要は「差別者」呼ばわりされていたのである。

当時の私は、原発事故の結果として、将来的に「畸形で生まれてくる子供も増えるだろう」「結婚・出産に悩む人も出てくるだろう」「甲状腺ガンになる人も大勢出てくるだろう」「福島の被爆した食料には、慎重であるべきだ」と訴えた人間である。それを、心配しすぎの傍迷惑な「放射脳」だと言われて、侮蔑されたのである。

しかし、心配しすぎて、何が悪いのか。そりゃあ誰しも、「何もなかった」ことに出来たら、それに越したことはないだろう。だが、確実に放射能は撒き散らかされたのであり、その悪影響は、多かれ少なかれ、確実にあるのである。そして、その事実を「過小評価」することは、単なる「願望充足的フィクション」へ逃避することでしかない。

たしかに「福島の復興」のことを思えば、放射能の影響を「過小評価」したくなる気持ちはよくわかる。しかし、だからと言って、それを認めてしまうことは、被害者を拡大させることになるのではないか。

先の私の理屈からすれば「一億総加害者」なのだから「みんなで放射能を分かち合おう」ということになるのかもしれないが、それならそうで、その現実を認めた上で、積極的に分かち合うべきではないか。
「もう大丈夫」だなどと、心にもない保証をして、「だまし討ち」にするようなことは、誰の行いであろうと批判されるべきなのではなないだろうか。本書にも書かれていたように、「(基準値以下の)低いリスクなら甘受すべき」だなどと、言われる筋合いはないのである。

実際、現在ではほとんど忘れ去られたに等しい「原発事故の被爆による甲状腺ガン」に問題について、今になってやっと、その真相が明らかにされてきた。やはり、心配すべき被害はあったのだ。ただそれは、「証拠隠滅」されて、表面化しなかっただけなのである。

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この問題について、私は、榊原崇仁『福島が沈黙した日 原発事故と甲状腺被ばく』のレビューで、次のように書いた。

『私も、原発事故後に、何冊かの関連書を読んで「きっと、10年後、20年後には、福島で内部被ばくした子供たちの中から、甲状腺がんを発症する者が大勢出てくることだろう」と思っていた。
ところが、今にいたるまで、そんな私の予想を実証するような話はまったく出てこない。政府の見解としても「そんなことが起こることを示すデータはない」と言う。私も、だんだんと当初の素人予想に自信が持てなくなり「やっぱり、被ばく被害を過大に見積もりすぎていたのだろうか。それならそれで、結果としては喜ばしいことではあるのだが…」と、いささか弱気に考えるようになっていた。

だが、原発事故問題とその被ばく被害については、持続的に興味を持っていた。時間が経ってから明らかになることもあるだろう、と考えていたからだ。だからこそ、本書を手に取った。
「決して、原発事故とその教訓を風化させてはならない。少なくとも、私個人は、そうした時間の経過に抗わなくてはならない」という、なかば意地と義務感とで、本書を手に取ったのである。
だから、まさかここまで「露骨な真相」が明らかにされていようとは思いもしなかった。

その真相に驚いたと言うよりは、むしろここまで真相が明らかにされたことに驚いた、と言った方が良いかも知れない。
そして、その真相自体についての感想は、「またか…」だったのである。』

「福島県民」は、この「補償を受けられない子供たち」について、何かする気があるのだろうか。あるいは、「よそ者は口を出すな」と言っていた開沼博は、この「よそ者=県外の人」の告発について、どう対処するのか(例えば、こういうエリートの発言なら歓迎だ、とでも言うのか)。ぜひとも、具体的なご意見を伺いたいところである。

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最後は、本書でも紹介している、「東日本大震災と福島第一原発事故」文学、最大の傑作である、吉村萬壱の『ボラード病』(2014年、文藝春秋)を、私も重ねて推薦しておきたい。

この作品は、吉村萬壱の「きれいごとに妥協しない」という個性に支えられて、その前にもその後にも、誰にも描けなかった「東日本大震災と福島第一原発事故の、その後」像を、鋭く描ききっている。
作品の造りとしては、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(2005年原書刊)にも似たサスペンスフルな作品だが、世界の本質を剔抉する文学としては、『ボラード病』の方がすっと深いし、そのぶん暗くて重い。

未読の方は、ぜひ『ボラード病』を読んでほしい。
文学とは「癒しのためのファンタジー」を提供するものなどではないという事実を、少しは思い知ることになるだろう。

なお、ついでに書いておくと、刊行後3週間になる本書『原子力の精神史 ――〈核〉と日本の現在地』のレビューが、私が最初というのは、どういうことなのか。
この事実の意味するところが、本書の悪口を書くだけの興味も持たれないほど「東日本大震災と福島第一原発事故」への興味が風化している、ということではないことを、私はただ祈るだけである。

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初出:2021年3月3日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年3月12日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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