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これの「せい」で犠牲者は生まれる
自分の選択を、時代のせい、社会のせい、親のせい、あいつのせい、貧乏のせい、体が弱いせい、自分の選択を何かの「せい」にした瞬間に、その人はその選択を自分の責任ではないと宣言したことになる。
そして、同時に、自分の人生をコントロールする力を自ら放棄することになる。なぜなら、責任=コントロールだから。責任を持てないならコントロールはできない。コントロールするなら、そこには責任が伴う。
そして、責任を
過度の一般化という病
【過度の一般化】
これって、相互理解をする機会を失わせて、差別や対立を生み出す危険な発想なんですよね。いろんなパターンがありますが、例えばたった数回の失敗経験から「自分は◯◯できない」と決めつけたり、「ゆとり世代だから…」「これだから、年寄りは…」「外人はだから・・・」とかそういう感じの思考法です。
最近だと、「素人レシピ」=危険、けしからん。みたいな話とかがそうですね。あるブログでそんなこと
「当たり前」が見えなくする。
娘たちの寝顔をみていつも思うこと。
この子たちがすやすや寝息を立てているのはとても「有り難い」こと。仕事があるのだって「有り難い」こと。食べるのだって、寝る時間があるのだって、なんだって「有り難い」こと。幸運の賜物だ。
運良く今あるからといって、こうしたものがいつでも永遠にあるとは限らない。それを「当たり前」だと思い始めた瞬間に、おかしくなり始めるんだよね。
不平ばかりになる。
今、ない物
教育<学習<創造, 過去<今≒未来
教育というのは、
主に「人に習う」ことを指す。
学習は自ら学ぶことを指す。
学びの対象は9割9分、
「過去の情報」である。
しかし、今は
人に教わるだけでも、
学習するだけでも、
まったく足りない。
環境が変化する中で
即応するには答えを自分で
創る他ない。
答えを創って、
適宜、軌道修正しつつ
ともかく前に進むのだ。
過去に正しかった
戦略、戦術、方法、考え方が
今日正しい保証なんて
Follow Your Heart!
誰かが言ったから、
それを「真」と認めるのではなく。
己が調べ考えた結果、
「真」だと言える人間でありたい。
正しい解を導き出すにしても、
間違うにしても、
自分で判断したいと思う。
他人に答えを
出してもらっているようでは、
自分の人生を
生きているとは言えない。
他人の答えに
依存して生きていると
すれば、
それは自分の人生ではなく
他人の期待を生きて
いるのに等しい。
他人の期待を