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「平成31年」雑感09 オウムにとって「殺人」が「救済」になる件

▼月刊誌「世界」の2018年9月号に、フォトジャーナリストの藤田庄市氏の論考が載っていた。〈死刑大量執行の異常 宗教的動機を解明せぬまま〉というタイトル。適宜改行。

▼オウム真理教は、その犯行が世俗的な動機だと考えると、理解できない行動をとっている。

〈1995年の地下鉄サリン事件と教団への強制捜査の状況を、彼らは「戦争」と認識した。それ故に強制捜査に対して都庁爆弾事件などを起こし、対抗したのだった。

一般の犯罪者ならば逃亡するところだ。

麻原の逮捕時の無様な姿を嘲(あざけ)るだけだとサリンやVXガス、自動小銃などの武器を自ら製造した深刻な事態が見えなくなる。〉

▼ここでいう「戦争」とは、宗教的な認識にもとづいた「戦争」である。

オウム真理教の宗教的な基盤は付け焼刃であり、浅いものだった。ここで大切なポイントは、「思想」の深さと、「苦行」の過酷さとは、比例しない、ということだ。

〈過激さがセミナーの売りものだった。そうした外形行動が、ヨーガやチベット仏教について一知半解であること、その叡智をないがしろにしていることを隠蔽(いんぺい)した。〉

▼そして、オウム真理教は次のような「論理」を駆使して、社会的な暴走に至る。

〈(1989年2月に起きた最初の殺人事件である)田口事件後、ポアについての麻原の説法が増える。1989年10月24日に麻原は東京の世田谷道場でこう語った。

「生かしておくと悪業を積み地獄へ落ち」る者を成就者が殺した場合、それは殺生なのか「それとも高い世界へ生まれかわらせるための善行を積んだことにな」るのかと問いをたて、麻原はこう説いた。

「客観的に見るならば、これは殺生です。客観というのは人間的な見方をするならば。しかし、ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、これは立派なポアです」

 つまり殺人者とみるのは世の凡夫であって、オウム信仰から見ればこれは救済なのである。

▼これが「救済殺人」、要するに「殺してあげることが救済になる」という論理である。この論理を内面化してしまった人々が、日本国家に対して「戦争」を仕掛けた。

坂本堤弁護士一家殺人事件は、この説法の10日後に起きた。(つづく)

(2019年4月20日)

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