ロックシネマ太郎

映画評論詩的感想文的なジャンルクソまぜになった文章書いたり、書いた絵を載せたり色々して…

ロックシネマ太郎

映画評論詩的感想文的なジャンルクソまぜになった文章書いたり、書いた絵を載せたり色々してみようかな。自動的に出てくる言葉をそのまま書きつける実験的試み。石原慎太郎の野蛮人のネクタイみたく。

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記事一覧

東京ロックダウンボーイ

 二〇二三年七月東京都三度目のロックダウン宣言、大年増の厚化粧小池百合子氏発令。俺はその時ちょうど洗面所にいたから、とても怖くてその場から動かず、洗面所で暮らす…

「イメージの本」

全てのイメージは撮られてしまったのではないか。または、観られてしまったのではないか。 全てのテクストは書かれてしまったのではないか。または、読まれてしまったので…

「魂のゆくえ」

映画館の暗闇が醸し出す閉塞感が好きだ。 その閉塞感から逃れるために、私たちは集ってスクリーンを見つめる。スクリーンの奥にある解放という錯覚。 この映画の暴力は内に…

映画脚本素案、壊れてく俺を見てくれ

自宅の白い部屋で寝ていると、天井がぐるぐる回ってまもなく天井が青空になって、それから誰がスイッチを入れたのか知らんが、天井がガーッと音を立ててせまってくる。俺は…

「シン・ゴジラ」

なんちゅう残酷で皮肉な映画。 スクラップに次ぐスクラップで、国家をぶち壊された後にやっと民族としてのプライドが立ち上がってくる。 誤解を恐れずに言ってしまえば、震…

「浮草」

旅回りの一座が「そこにいることを強いる共同体」として描かれており、ということはやっぱりこの映画も家族の映画なのだ。 旅回りの一座という疑似家族の緩やかな解体。 緩…

「芳華-Youth-」

青春を諦めない映画だ。 戦争という祝祭、青春は大合唱の後の静けさをもって幕を閉じる。 青春を引き延ばそうとすればするほど、彼らは傷ついていく。 腕を失う、心は壊れ…

「勝手にしやがれ 強奪計画」

純粋な映画というのは、純粋な行為と同義でそれなら純粋な行為とはなんだという話になるのだろうが、純粋な行為とは自身が何故それをするのか知らない運動であり、第三者か…

「斬、」

塚本晋也は人と人ならざるものとの境目を撮りつづける作家だ。 人がモノに変わる瞬間を撮り続ける作家だ。 それは、人の体から手足がちぎれる瞬間であり、内臓が飛び出て血…

「ミリオンダラーベイビー 」

クリントイーストウッド監督作最大の特徴「王道からの逸脱」 王道を生きてきたクリントイーストウッドにとって、王道からあえて逸脱することは、宿命でもあるのだと思う。 …

「ファーストマン」

宇宙という未知なるものは、映画においては自己に対する他者と等号で結ばれてきた。 例えば、この映画では、ニール・アームストロングにとって宇宙イコール家族であるし妻…

「セーラー服と機関銃」

長回しは鑑賞者を発狂させる。 その圧倒的な情報量によって。 同時多発的に何かがそこかしこで起こり、スクリーン内では何もかも平等で、悲しみや喜びも、生や死も平等で、…

zazen boys @TSUTAYA O-EAST

冷凍都市渋谷に降り立ち、せわしなく行き交う人の流れに乗りながら歩いていると、知り合いか知り合いでないか一目では判断がつかん女っぽいおそらく女がいたので、声をかけ…

「寝ても覚めても」

やっぱり私たちは、演技しないと生きていけない。 女は女であることを演じるし、男は男であることを演じる。 「私亮平のこと好きやで」 と何かを確認するかのように、定期…

「Roma」

発狂した尋常でない映像の連続。 そこでは、暴力と死が後景に追いやられ、鉄砲や軍隊のラッパの音が彼らの生活のBGMのような役割を演じ続けている。 暴力が後景に追いやら…

「トゥルークライム」

物語という意味を映画に付与されることを、極端なまでに嫌がるのがクリントイーストウッドなのだと思う。 一見、黒人差別を取り上げた社会派映画のように見えるが、そのよ…

東京ロックダウンボーイ

東京ロックダウンボーイ

 二〇二三年七月東京都三度目のロックダウン宣言、大年増の厚化粧小池百合子氏発令。俺はその時ちょうど洗面所にいたから、とても怖くてその場から動かず、洗面所で暮らすことに決めた。手も洗えるしね。一か月二か月三か月目、きついけどそういう思い切った選択が大切な人を敵から守るのさ。ステイホーム!!
 

 早速手洗い。手を洗わなきゃ。手を洗わなきゃ死んじまう。手を洗わなきゃ。洗わなきゃ死ぬ。
 

 生活、

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「イメージの本」

「イメージの本」

全てのイメージは撮られてしまったのではないか。または、観られてしまったのではないか。
全てのテクストは書かれてしまったのではないか。または、読まれてしまったのではないか。
という強迫観念のようなものに苛まれ続けるジャン=リュック・ゴダールが四年振りに撮った?新作は、とにかくイメージの氾濫としか呼びようのない現象として(認識というよりは現象として)体感された身体的な営みだった。
テクストを痰が絡んだ

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「魂のゆくえ」

「魂のゆくえ」

映画館の暗闇が醸し出す閉塞感が好きだ。
その閉塞感から逃れるために、私たちは集ってスクリーンを見つめる。スクリーンの奥にある解放という錯覚。
この映画の暴力は内にこもりこもったままエンディングを迎える。
同じポールシュレイダー脚本のタクシードライバーにおけるトラヴィスの暴力衝動のようなものは一応発散されたわけだが、この映画における主人公の息子の死というトラウマからの解放=暴力衝動は徹底して自己へと

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映画脚本素案、壊れてく俺を見てくれ

映画脚本素案、壊れてく俺を見てくれ

自宅の白い部屋で寝ていると、天井がぐるぐる回ってまもなく天井が青空になって、それから誰がスイッチを入れたのか知らんが、天井がガーッと音を立ててせまってくる。俺は怖いから寝返りを打ったり、胸をかきむしりながらそれから逃れようとするのだが、そんなことしていても何がどうなるわけでもなく、天井は止まらずにせまってくる。気づいたら天井は鼻の先までせまってきていて、なぜかそこで停止した。だからと言って横に逃れ

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「シン・ゴジラ」

「シン・ゴジラ」

なんちゅう残酷で皮肉な映画。
スクラップに次ぐスクラップで、国家をぶち壊された後にやっと民族としてのプライドが立ち上がってくる。
誤解を恐れずに言ってしまえば、震災の時に湧き上がってきた底知れぬ勇気、覚悟のようなもの。
とりあえず、ゴジラを固めた。
恐いのは、固まったゴジラが再び動き出し、街を破壊し尽くす姿が待ち遠しくてしょうがない私たち自身だ。

「浮草」

「浮草」

旅回りの一座が「そこにいることを強いる共同体」として描かれており、ということはやっぱりこの映画も家族の映画なのだ。
旅回りの一座という疑似家族の緩やかな解体。
緩やかなつながりの再構築。
そこからいなくなろうとする人中村鴈治郎。
そこからいなくなるということが小津映画では家族という共同体の解体とイコールなのだ。
そして、どこに行こうとも必ずそこに帰ってくるという約束がつながりだ。
そこからいなくな

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「芳華-Youth-」

「芳華-Youth-」

青春を諦めない映画だ。
戦争という祝祭、青春は大合唱の後の静けさをもって幕を閉じる。
青春を引き延ばそうとすればするほど、彼らは傷ついていく。
腕を失う、心は壊れる。
それなのに、私たちは青春を諦めない。
あの一瞬の輝きを永遠にと思うから、私たちは映画をつくるのだ。

青春という純粋無垢な時間に突如異物として入り込む、血や泥や焼けただれた肌、食い込む銃弾。
青春にドロドロの赤黒い血色はいらない

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「勝手にしやがれ 強奪計画」

「勝手にしやがれ 強奪計画」

純粋な映画というのは、純粋な行為と同義でそれなら純粋な行為とはなんだという話になるのだろうが、純粋な行為とは自身が何故それをするのか知らない運動であり、第三者から見てもその人が何故それをするのかわからない運動である。
映画は純粋な行為が、そのままアクションとして提示されてさえすれば良いのだ。
物語の辻褄や、登場人物の心理などはどうでもいい。
この映画で「何故それをするのか知らない」ということが画面

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「斬、」

「斬、」

塚本晋也は人と人ならざるものとの境目を撮りつづける作家だ。
人がモノに変わる瞬間を撮り続ける作家だ。
それは、人の体から手足がちぎれる瞬間であり、内臓が飛び出て血しぶきの上がる瞬間だ。
そして、血がダラダラと流れ出て人間が絶命する瞬間、私たちの体はまるごとモノとして世界に投げ出される。
そこに暴力が介在しないわけがない。
極限の暴力が場を支配する時、そこに存在する人はモノに変化せざるを得ない。

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「ミリオンダラーベイビー 」

「ミリオンダラーベイビー 」

クリントイーストウッド監督作最大の特徴「王道からの逸脱」
王道を生きてきたクリントイーストウッドにとって、王道からあえて逸脱することは、宿命でもあるのだと思う。

王道を生きるということは、人間の尊厳を体現するということだ。
この映画でイーストウッドが、人間の尊厳を問い直すことは彼にとって必然だった。
主人公のチャンピオン戦の入場シーンが葬列のように見えるのは、彼女が神に捧げられた生贄だからだ

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「ファーストマン」

「ファーストマン」

宇宙という未知なるものは、映画においては自己に対する他者と等号で結ばれてきた。
例えば、この映画では、ニール・アームストロングにとって宇宙イコール家族であるし妻であるし、死んでいった友であるしアレンであった。

そして月は死のメタファーであった。
彼が宇宙へ行く時、又は向かっている途中考えるのは決まって、死んだ娘のことだ。死んでいった友のことだ。
月という究極の楽園は、彼にとって娘との再会の場

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「セーラー服と機関銃」

「セーラー服と機関銃」

長回しは鑑賞者を発狂させる。
その圧倒的な情報量によって。
同時多発的に何かがそこかしこで起こり、スクリーン内では何もかも平等で、悲しみや喜びも、生や死も平等で、血などただの赤い絵の具に過ぎない。
機関銃が火を噴く時のスローモーション、「カイカン」という音と薬師丸ひろ子の開ききった瞳孔がスクリーン前景にせり上がってきてゾッとする。
紛れも無い暴力だと思った。
長回しのゆったりした時間の流れを遮って

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zazen boys @TSUTAYA O-EAST

zazen boys @TSUTAYA O-EAST

冷凍都市渋谷に降り立ち、せわしなく行き交う人の流れに乗りながら歩いていると、知り合いか知り合いでないか一目では判断がつかん女っぽいおそらく女がいたので、声をかけようとすると明らかにこちらに気づいて、やべ、山口じゃんめんどくせぇ的なニュアンスで目をそらされたので傷心し、トボトボ109と書いたビルに向かって引き続き歩き、その横の緩やかな坂をあの女絶対殴るとブツブツ呟きながら進んでいく。
するとケータイ

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「寝ても覚めても」

「寝ても覚めても」

やっぱり私たちは、演技しないと生きていけない。
女は女であることを演じるし、男は男であることを演じる。
「私亮平のこと好きやで」
と何かを確認するかのように、定期的につぶやく朝子の気持ち悪さ。
彼女はそれを言うことで、女をうまく演じることができているか亮平に無意識に確認しているのだと思う。

朝子が猫に餌をやってるところを、亮平が階段の上から見ていたら、不意に朝子と目があってしまうシーン。
普通

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「Roma」

「Roma」

発狂した尋常でない映像の連続。
そこでは、暴力と死が後景に追いやられ、鉄砲や軍隊のラッパの音が彼らの生活のBGMのような役割を演じ続けている。
暴力が後景に追いやられている間、私たち鑑賞者はそれを心地よくすら感じてしまっている。
私たちがその尋常ではない事態に気付かされるのは、主人公が家具屋に行って、暴動に巻き込まれ堕胎するまでの一連のシークエンスを見た時だ。

暴力が境界を乗り越えてくる。

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「トゥルークライム」

「トゥルークライム」

物語という意味を映画に付与されることを、極端なまでに嫌がるのがクリントイーストウッドなのだと思う。
一見、黒人差別を取り上げた社会派映画のように見えるが、そのようにこの映画に意味を付与した瞬間にこの映画は映画ではなくなってしまう。
主人公は物語という意味から逃れるように、自分の「鼻」だけを頼りに行動していく。
彼の「鼻」が突き止めた「ホントウ」のことは一切の物語を拒否している。
差別される哀れな黒

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