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東京ロックダウンボーイ
二〇二三年七月東京都三度目のロックダウン宣言、大年増の厚化粧小池百合子氏発令。俺はその時ちょうど洗面所にいたから、とても怖くてその場から動かず、洗面所で暮らすことに決めた。手も洗えるしね。一か月二か月三か月目、きついけどそういう思い切った選択が大切な人を敵から守るのさ。ステイホーム!!
早速手洗い。手を洗わなきゃ。手を洗わなきゃ死んじまう。手を洗わなきゃ。洗わなきゃ死ぬ。
生活、
映画脚本素案、壊れてく俺を見てくれ
自宅の白い部屋で寝ていると、天井がぐるぐる回ってまもなく天井が青空になって、それから誰がスイッチを入れたのか知らんが、天井がガーッと音を立ててせまってくる。俺は怖いから寝返りを打ったり、胸をかきむしりながらそれから逃れようとするのだが、そんなことしていても何がどうなるわけでもなく、天井は止まらずにせまってくる。気づいたら天井は鼻の先までせまってきていて、なぜかそこで停止した。だからと言って横に逃れ
もっとみる「芳華-Youth-」
青春を諦めない映画だ。
戦争という祝祭、青春は大合唱の後の静けさをもって幕を閉じる。
青春を引き延ばそうとすればするほど、彼らは傷ついていく。
腕を失う、心は壊れる。
それなのに、私たちは青春を諦めない。
あの一瞬の輝きを永遠にと思うから、私たちは映画をつくるのだ。
青春という純粋無垢な時間に突如異物として入り込む、血や泥や焼けただれた肌、食い込む銃弾。
青春にドロドロの赤黒い血色はいらない
「勝手にしやがれ 強奪計画」
純粋な映画というのは、純粋な行為と同義でそれなら純粋な行為とはなんだという話になるのだろうが、純粋な行為とは自身が何故それをするのか知らない運動であり、第三者から見てもその人が何故それをするのかわからない運動である。
映画は純粋な行為が、そのままアクションとして提示されてさえすれば良いのだ。
物語の辻褄や、登場人物の心理などはどうでもいい。
この映画で「何故それをするのか知らない」ということが画面
「ミリオンダラーベイビー 」
クリントイーストウッド監督作最大の特徴「王道からの逸脱」
王道を生きてきたクリントイーストウッドにとって、王道からあえて逸脱することは、宿命でもあるのだと思う。
王道を生きるということは、人間の尊厳を体現するということだ。
この映画でイーストウッドが、人間の尊厳を問い直すことは彼にとって必然だった。
主人公のチャンピオン戦の入場シーンが葬列のように見えるのは、彼女が神に捧げられた生贄だからだ
「セーラー服と機関銃」
長回しは鑑賞者を発狂させる。
その圧倒的な情報量によって。
同時多発的に何かがそこかしこで起こり、スクリーン内では何もかも平等で、悲しみや喜びも、生や死も平等で、血などただの赤い絵の具に過ぎない。
機関銃が火を噴く時のスローモーション、「カイカン」という音と薬師丸ひろ子の開ききった瞳孔がスクリーン前景にせり上がってきてゾッとする。
紛れも無い暴力だと思った。
長回しのゆったりした時間の流れを遮って
zazen boys @TSUTAYA O-EAST
冷凍都市渋谷に降り立ち、せわしなく行き交う人の流れに乗りながら歩いていると、知り合いか知り合いでないか一目では判断がつかん女っぽいおそらく女がいたので、声をかけようとすると明らかにこちらに気づいて、やべ、山口じゃんめんどくせぇ的なニュアンスで目をそらされたので傷心し、トボトボ109と書いたビルに向かって引き続き歩き、その横の緩やかな坂をあの女絶対殴るとブツブツ呟きながら進んでいく。
するとケータイ
「トゥルークライム」
物語という意味を映画に付与されることを、極端なまでに嫌がるのがクリントイーストウッドなのだと思う。
一見、黒人差別を取り上げた社会派映画のように見えるが、そのようにこの映画に意味を付与した瞬間にこの映画は映画ではなくなってしまう。
主人公は物語という意味から逃れるように、自分の「鼻」だけを頼りに行動していく。
彼の「鼻」が突き止めた「ホントウ」のことは一切の物語を拒否している。
差別される哀れな黒