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NHK100分de名著 西田幾多郎『善の研究』第1回「生きることの“問い”」改定版

第2回「“善”とは何か」はこちらです

これから

昨年令和4年(2022)に一度見た番組

NHK100分de名著 西田幾多郎『善の研究』について

1年後の今再び見て、気になったところを取り上げ考察を進めて行きたいと思います☺️

第1回は「生きることの“問い”」です

◆改定版です。番組テキストとそれに対する考察を加えました☺️

【番組テキストの内容抜粋】

はじめに

「如何にして存在するか」ではなく「何のために存在するか」が「価値」である、というのです。

西洋哲学が、論理で証明しようとするのに対して、西田は「直観」あるいは「直覚」の意義を説きます。西洋哲学が、言語による証明に重きを置くのに対して、西田は非言語的なものによっても存在を認識できるといいます。

「至誠」ー至上の誠実ーは、西田における哲学の根本問題だとといってよいものです。それは、言語によって語ることのできない。それどころか、涙によってすら物語ることができず、ただ、人の心の底から底へと静かに伝わる何ものかである、というのです。

自分の心の中にある、言葉にならない「おもい」を知り、それはほかの人の心にもあることを知らねばならないのではないでしょうか。

第1回 生きることの「問い」

西田にとって「経験」とは、個から出発して個を超えていこうとすることでした。また、「思惟」は、単なる「思考」の延長ではなく、「考える」という行為を通じて「個」を超えていこうとす試みだというのです。
別のいい方をすれば、「経験」とは、「個」を超えた場所で生きることであり、「思惟」は、個人的思考から普遍的思考へと変貌していくことだともいえそうです。
西田は、個は、「人類の経験」によって形成されている、と考えています。
西田は、「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」と述べています。
ここでの経験は「人類の経験」です。
西田は、私たちは世界を「人類」の眼、普遍の眼で見なくてはならない、と述べています。

西田は数学的才能に恵まれていました。数学者の道に進む可能性もあったのです。事実、彼が生涯の師とした北條時敬は、数学者になることを西田にすすめます。
しかし、西田には哲学の道を行く必然がありました。
1907年、『善の研究』が刊行される4年前に書かれた「我が子の死」と題する文章があります。
その文章の一節は、西田が次女幽子を喪った時に書かれたものです。ここで西田は、学問もさまざまな営みも、究極的には「人情」のためにする、と述べています。
ここでの「人情」は、単に情け深いということを意味するのではありません。それは人間の心の不思議と置き換えることができるのではないかと思います。
人間の心の不思議、心の謎とは何か。これが西田の根本的な「問い」であり、この心の不思議をまざまざと経験することが西田にとっての哲学の「目的」だったのです。

哲学者西田幾多郎にはいつも、求道者である己が、共にいます。彼の哲学の言葉は、「考える」ことによってではなく、「行ずる」ことによって生まれてきたものでもあるのです。

西田にとっての「知識」は情報としての知識とは違って、頭と身体の両方で知ることを指しています。知は頭、識は身体全体を意味しています。
そして、哲学にとってもう一つ大切なことは、「情意」だともいう。「情」は、私たちの心のはたらきです。情意とは、容易に言語化されない「おもい」だと考えてよいと思います。
世界は「あたま」だけで認識されているのではなく、そこにはつねに「こころ」のはたらきがある。これらが1つになったとき、「真実在」への扉が開かれる、というのです。

頭脳で行う科学的「認知」が重要なのはいうまでもありません。しかし、それは心身で育まれる哲学的「認識」の始まりに過ぎないと西田は考えています。

西田が強調しているのは、人が、同じことを認知しながら、個々別々の世界を認識し、生きているということです。
さらにいえば、世界は1つである一方で、100人いれば100通りの世界がある。それが、この世界の現実だというのです。

現実の世界では、別々のものも、実在の世界においては「一なるもの」だというのです。

まさに世界は「動き」、私たちの心が「揺れる」。一瞬たりとも同じ世界は存在しない。これは彼がいう「実在」の在り方を表現する言葉でもあります。

第四編「宗教」
最初に読みたいのは第四編の最後に「付録」のように置かれている「知と愛」という随想です。

「知と愛」とは愛知、すなわち哲学(フィロソフィー)のことです。

この文章を繰り返し読むことで私たちは西田の哲学の核となる部分を垣間見ることができます。

西田は「知の巨人」だっただけではありません。深い「愛の人」でもありました。

「知る」と「愛する」という営みは、一見すると2つの異なる認識の方法のように映る。しかし、そうではない、と西田はいいます。それらは「主客合一の作用」、すなわち自分と対象が1つになろうとするとき、共に動き始めるものだと考えています。
ここで西田は「主客合一の作用」を「我が物に一致する」と言い換えてもいます。西田がいう「物」は物体ではありません。「他者」という言葉に置き換えた方がいいでしょう。

もし、「主客合一の作用」がなければ、私たちは美しい絵画を見ても、あるいは音楽を聴いても感動することはありません。悲しむ他者の姿を見て、涙を流すこともありません。さらにいえば、「主客合一の作用」があるからこそ、私たちは道端に咲く花にいのちを認識するのです。

通常「宇宙」という言葉は、ロケットなどが飛翔する大気圏外の宇宙空間を指します。しかし、西田のいう「宇宙」とは、そのようなものではありません。彼が考えた「宇宙」は森羅万象の異名です。さらに「宇宙」は、外的空間だけでなく、内なる世界も包含する言葉です。

今の引用に「共に笑い共に泣く」とあったように、異なる2つのものが、異なるままで、「共鳴」し「共振」しているようなイメージでとらえた方がよいと思います。

西田にとって「愛」とは、生けるものの本質を掴むちからです。花の中には生けるもの、いのちがある。それを感じたときに私たちは花を愛し、そして花に愛されていると感じる。花に愛されるというのは、花との交わりが生まれるということです。

「一致」の世界には、損得や利害といった関係は成り立ちません。他者の喜怒哀楽は、そのまま「わがこと」になっていきます。

親と子は、心でそれぞれに入れ替われるほど、互いを「わがこと」として感じることができる。愛とは、そのような、お互いの心を感じ合うものだというのです。

ここで述べられていることを別の表現でいうと「無私」ということになります。無私とは、私が全身を投げ出せるような状態、私たちが「私」をなくすことのできる状態のことです。

「私」が主語になると、世界はとても狭くなる。「私」がいなければ世界は存在しないかもしれない。しかし、「私」が深くなっていくと、表層意識の「私」ではない本当の自己である「わたし」が世界の底にふれていこうとする。この状態が、西田のいう「善」の世界なのです。

【番組テキストの内容に対する自分の考察】
〈自分は「何のために存在するか」について〉
私たちの人生の出来事は、全て自ら思う様にやりたい様にやっているのではなく、あちらから目的もわからず次々とやってくることが多いです
自分は何のために存在するのか
今のところの自分の答えは、人生からやってくる様々なことに対処し、エゴを限りなくなくしていき、自分の無意識を深掘りし、宇宙さんたちと接続できる普遍的無意識(集合的無意識)まで到達し、他の人とも深い部分でつながり、共感・共振し、1つになることだと思います

〈「誠」について〉
少し前から、自分の中でも「誠」という言葉がよく頭をもたげます
仕事を始めそうですが、最初はどうでもいいと思っていても、最終的には手を抜くことがなく、やれることはできる限りやってしまうのです
これはツインレイのあの人へのエゴや執着がなくなり、あの人への“真実の愛”に到達してからです
職人さんにも「誠」があると思いますが、そらはその仕事に対する「愛」があるからでしょう
“愛”があるところに、「誠」「誠実」「丁寧」が生まれてくるのです

〈言葉にならない「おもい」について〉
自分は、度々ツインレイのあの人の名前が浮かび胸に愛が湧き上がります
湧き上がった段階で言葉や感覚刺激として認識していますが、その前に、心の底・胸の底に言葉などにならない、あの人への“愛のおもい”が常時存在しているのだと思います
だからことあるごとにあの人の名前と愛が知覚できる形で湧き上がってくるのだと思います

〈求道者であることについて〉
西田幾多郎は求道者として、「行ずる」ことで哲学をしていたとされています
自分は学生時分や仕事時にメンタルの調子を崩して長期療養を余儀なくされましたが、奇跡的に回復したところ、ツインレイのあの人に出会いました。一緒に過ごすことができましたが、程なくして別離が訪れ、サイレント期間となり、そこからあの人へのエゴや執着をなくす修行が始まりました
結果、あの人へのエゴ・執着は消滅して、無条件の愛、真実の愛に到達することができました
辛く苦しく時期も、結果、人生の“修行”として訪れていることが後で振り返ってわかったのです

〈共感・共振する人と一緒に過ごすことと、そうではない人と一緒に過ごすこと〉
会話中などである時に共感・共振する人とはその瞬間一体となった感じがして涙ぐむ場合もあります
他方、共感・共感しない人は形通りの会話しかせず感動もありません
自分がその人に対し“愛で在る”ことをしても表面上では通じていないのです
これは表面上の接点はなくても、無意識上はなんらかの影響を与えたり、種を渡したりしていると考えるしかないのでしょうか

〈主客合一について〉
自分が経験する主客合一の最たるものは、先程も述べた、度々あの人の名前が浮かび、胸からあの人への愛が湧き上がることです
3次元現実のあの人とは全く関係ありませんが、自分の心の中と胸ではありますが、あの人と一致・一体となって存在しているのです
名前と愛との認知の前には、その純粋経験を直接経験していると思います

〈花の美しさに愛を感じる時について〉
花を美しいと感じる時は、“愛”を感じていますが、その“愛”とは「存在」のことだと思います
そして、美しいと感じた時、花の「存在」を感じた時、花からも自分の「存在」を感じてもらっている
花と言葉などの情報のやりとりはありませんが、「存在」同士でやりとりがある、というのが“愛”の本質だと思います

〈どんな人に対しても「わがこと」の様に思うことについて〉
これは実際思う以上に難しいことです
自分はエゴがなくなり、周囲にも“愛で在れ”ることができ、愛の施しである“福田ふくでん”もすることが多いですが、万人や心ない人に対しても、愛が在る「わがこと」でいられるかはまだわかりません
ただそういう人でも“その人が存在している”ということは受け入れると思います
それが“愛”なら実践できると思います

〈「無私」ということについて〉
「無私」とは先にも述べたエゴをなくすことだと思います
エゴがなくなると自分の殻の世界にとどまることなく、開かれていくと思います
無意識が深掘りされ、普遍的無意識(集合的無意識)に到達し、宇宙さんたちと接続します
それが西田の言葉では“善”というのでしょう

【以下は改定版の前に公開した番組内容の一部です】
西田は、日本独自の哲学を誕生させました
度重なる人生の悲哀を乗り越えるために…

西田の著作『善の研究』は、これまで文庫本で100万部以上の売上げという時代を超えたベストセラーです

西田は、哲学を人生の問題として徹底的に考えました
『善の研究』の執筆中には2人の娘を相次いで亡くしました

西田には、人生の問題と真理を求めることは、分かち難いものとしてあったのです

『善の研究』では、“純粋経験”から道徳、宗教なとをすべて考えようと試みました

その態度は、言葉にできることだけで世界を認識するのではなく、言葉にできないこともとても大事にしていくということでした

“知”の力は“言葉”の力。“言葉”によって認識して行こうとする力

“愛”の力は、“言葉”を超えて行く。理屈を超えてものを認識して行く力

ともに、自分が対象と1つになろうとする精神作用で主客合一の状態となっている

“知”と“愛”が結びついたところに、何かが起こる

大きな苦難を背負っている人こそ、次の時代を作っていける

西田の言葉「哲学の動機は…深い人生の悲哀でなければならない」

【番組の内容を受けた考察】
〈哲学書を多読するのではなく、“自分自身の哲学をすること”について〉

西田の様に、人生に大きな苦悩に満ち、打ちひしがれ、哲学に足を踏み入れる人は少なくないと思います

自分もそうなんですが

しかし、読んだ本の中にぴったりの回答があると期待して過去の哲学者の本を立て続けに読んではみるものの、結局、解決には至らないことが多いです

結局、人生はそれぞれの個人に固有のもので、哲学書はきっかけに過ぎず、自分自身の哲学をし始めなければならないのです

自分の人生を自身に問い続け、自分の哲学を一生涯する事で、その時々で答えを出し、了解し続けて行くことが必要だと思います

〈世界認識の方法について〉
西田は世界認識の方法について

言葉だけによる世界認識では不完全で

言葉ではとらえられない方法(愛)も不可欠だと説きました

自分のこれまで読んだ本の中に、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』があるのですが

そこでは、真偽が判定できる命題化された言語型式で記述できないものについては、言及しない、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」とありました

当然、“愛”の様なものは、真偽が判定できる命題化された言語形式では表現されないので、この書での「語りえぬもの」になるのですが

自分はこのことには疑問に思っていて
例えば真偽が判定できる命題化された言語型式でなくても
“愛”を始めとして、多くの人に何かは知覚され認識されているものについては、他の人に了解される形で語って行きたいと思っていたのでした

そういうこともあり
自分は、上記の西田の言葉ではとらえられないもの(愛)も大事だという態度は、多いに納得、共感するのです

そして
このことについては、次回以降、考察を深めて行きたいと思うのです

〈大きな苦難を背負っている人たちについて〉
西田もそうだったと思うのですが

自分の経験からも

苦難の時点では、闇がとても長く続き、その時分の人生に何の意味も見出せず、苦しみもがきます

自分は学生時分や仕事に就いている間、メンタルに不調をきたし、長期療養を余儀なくされました

特に仕事では、ブラックな職場に異動となり、朝までの勤務が続き、どうにも壊れてしまったのです

しかし、長い療養を経て、奇跡的に回復し職場復帰ができました

振り返るとその暗黒時期を通過した後、結果が実を結んで、人生の方からその意味が現れて来たのです

自分の場合はエゴ(我)が潰され、剥がされ

その後に続く、運命的な特別な異性である、あの人に出会い、しかし、すぐ別離しましたが

でも、そのお陰もあって、あの人に対し無条件の愛の達することができて
結果、周囲の人、誰に対しても“愛で在る”ことになれました

苦難を乗り越えた先の結果から振り返ると

苦難の必然的な目的が分かるのです

繰り返しになりますが
人の人生の目的の1つは

自分のエゴをなくし、他の人と共感、1つなれる状態になることではないかと思っています

西田の哲学は、自分のこれまでの人生経験、スピリチュアルな考え方と類似していると思います

そのことついても、今後、触れて行きたいと思います(*´-`)💖

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