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心のゆとりを持つ〜成果に対する自信を感じられない人へ〜

先日、父親と話していた際に自分自身がすごく
納得できた話があったので、同じ境遇の人が
いたらと思い、備忘録のためにも私自身のこと
を綴ります。

私自身、自分でいうのもなんですが、大学時代は
自分にかなり自信を持ってました。

人前で話すのも得意ですし、なんでも自分なら
やってのけると思っていましたし、実際に結果
も出してきました。

しかし、社会人になり環境の変化やアクシデント
など様々な新しい壁にぶつかり、いつしか自分の
みなぎってい自信は枯渇してしまってきました。

得意と感じていたことも苦手感が増し、次第と
その事象から避けるようにもなっていました。

また、どれだけ成果を挙げたとしても、

「いやこれはたまたま…」
「いやまだまだこんなもんじゃない…」
「いやもっと上がいるから…」

このような言葉ばかり心に浮かび上がり、
自分の成果に対して自ら賞賛もできなければ
自信も持てなくなっていました。


今までであれば、

「よくやった自分!」
「またうまくいった!」
「やっぱ自分はできるやつ!」

このような前向きな言葉が浮かんでました。


しかし、自分に自信が持てなくなってからは、
下向きな感情しか浮かび上がってきませんでした。

本来であれば、賞賛すべき成果であったり、
その成果を自信に変えることもできることも、
とにかく自己評価が極端に低いのです。


過去記事でも紹介した「インポスター症候群」
というやつです。


なぜこのようになってしまったのかを改めて
振り返ってみました。

私の原因はおそらく今まで積み上げてきた自信
がぶち当たった壁の数々で崩れ落ち、

その自信を再構築するには「他人の評価」や
「他人の承認」が得られなければ、強固な自信
とならないと決めつけてしまったからだと思い
ました。

自らが信じる「自信」は脆い。
他人の評価や承認で固めた自信は揺るがない。

このような評価軸の誤認識が原因だと思います。

また、この他人の評価や承認も「相手の表現」
マターであるため、なかなか感じられるもの
でもありません。

直接褒めてくれる人もいますが、言葉にせず
心の中で褒めてくれる人の方が多数です。

そのため、どれだけ知識をつけても、どれだけ
成果を挙げたとしても、そもそもそれが他人
から評価されること自体稀なんです。

それがないからといって自分の自信を削ぎ落とし
ていくのは愚行です。

また、そこから悪循環で自分自身を認めるという
自己評価もどんどん厳しくヒートアップします。

結局、自分自身をどうやっても最終的に認める
ことができなくなり、
他人の評価や承認さえも材料にならなくなって
きました。

そのため、何をやっても自分が認められない
ため、自信という存在すら消えることになります。

私はそれをしていたんだと気付きました。

そのため、とにかく自分の成果や経験に対し、
自らが認め自信にしていいんだと許すことが
大切だと思います。

ただ、なかなか思考の癖は修正が難しく、
私自身このように言うのは簡単ですが、
実績や成果があっても自信が持てませんでした。

そこで、父に言われた言葉は、

「自信を持てるほどの実績や成果があるのに
 持てないのは、心にゆとりがないからだ」

ということでした。

自信が持てて初めて心のゆとりが生まれるもの
と私は考えていましたが、

逆に、心にゆとりがないから、自信を持てるほど
の実績や経験があっても自信とならないんだと
いう考え方に納得しました。


この心のゆとりは自分自身に「余裕」があるか
どうかだとも話していました。

そのため、自信を持つということよりも先に、
心のゆとりのためにも「余裕」を持つということ
を意識したいと思います。

これは私的にはもっと気楽に構えて、物事の
捉え方に「弛み」を持つことが余裕につながる
のではと思っています。

もう少し気楽に構えて、余裕を持った人間を
目指したいと思います。

少しファジーな内容でしたが、お付き合い
ありがとうございました。

それでは。

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