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私はまるで、ミルフィーユのように

秋山具義さんの「世界はデザインでできている」。


この本を読み終えた私の感想は「くぅぅぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜〜!!!」だった。

そしてその次に押し寄せた気持ちは「うむむ、私だって・・・!」だった。


意味がわからないですね。説明します。

秋山さん曰く「世界はデザインでできている」らしい。
生身の人間の体や大地を除く、眼に映るすべてのものは、デザインされているものだ、と。ふむふむ、と思う。確かにそうだ。建物だって、お店だって、お洋服だって、今私が触っているこのパソコンだって。すべてが誰かしらによって「デザインされて作られたもの」だ。

そして、その「デザインには人の行動を変える力がある」という。

このあたりから、沸々と「ムキーっ」的感情が出てくる。

私は、少し天邪鬼なところがある。そしてちょっとSっ気があると思う(?)。
つまり、練りに練られたデザインや広告によって、私の行動が「動かされている」ということに、ちょっとプイッとしたくなる気持ちが芽生えるのだ。「え、私、デザインした人の手のひらで、見事に転がされている・・?それは癪に障るわ!!」と。面倒な人間である。

ふと手に取った雑誌は、私が手に取るように「デザイン」されていて、ふと買い物かごに入れてしまった袋麺は、私が買いたくなるように「デザイン」されているというのか。ムムム。

とはいえ一方で、その「私が使いそうなもの・買いそうなもの」としてデザインされたものによって、私が日々の楽しみを享受しているのも事実である。可愛いお洋服やコスメ、軽くて薄くてシンプルなMac Book Air、使いやすいアプリ、感動して涙した小説。すべてが、「デザイン」を通して私の手に渡り、私の血となり肉となり経験となっているのであれば、この「デザイン」ってのは、ありがたい存在なのである。

そして、中でも私が毎日、その「デザイン」に動かされているのは、何と言ってもこの「note」というプラットフォームだと思う。

余計なものが何もない真っ白な画面、程よい行間、特段IT領域に詳しくなくても簡単に画像も音楽もリンクもはれちゃう、シンプルな機能やその案内たち。ついつい書くことに没頭しちゃうその環境は、まさにnoteの中の人が望んでいる状況だろうと思う。

ただ、私は毎日noteを更新し続けてもうすぐ300日になるところなのだけれど、この「note」というプラットフォームは、実は私たちクリエイターに「委ねられた」場所だということに気づいてきた。まるで「さぁ、ここをどう使う?」と言われているかのように。

ブログなんてやったこともない超素人の私、ITや広告に関するお仕事なんかもしたことがない私が、こだわりを見せ始めたのは、このnoteがきっかけだ。

始めのうちは、ただつらつらと書いているだけだった。それこそ「何も考えず」に。しばらくすると、どうしたらもっとたくさんの人に読んでもらえるようになるのだろうか、と考えるようになる。

改行を多めにしてみよう。ちょっとポップな文章の時は、意識的に太文字を入れてみよう。逆にシリアスな文章を書く時は、その感情の波を読み手に託したいから太文字は使わないでおこう。

長すぎる文章は、それに見合うほどの熱量があるものだけにしよう。Twitterと連携してシェアしてもらえるようにしよう。ヘッダー画像は、必ず入れよう。タイトルに引力がなくても、画像で引っ張ることもできるかもしれないから。

ヘッダー画像は、人の作ったイラストや写真を使うこともできるけれど、余程のことがなければ、なんでもいいから自分が撮影した写真を使うようにした。私が撮った写真は、私以外の人にとっては「初めて観る写真」であるはずだから。私のオリジナル感や手作り感を、少しでも出したい。

少しずつ、写真の意味づけもこっそり含めるようにしたりした。ほっこりした話題やじっくり考えたいテーマについて書くときは、カフェで撮った飲み物の写真。「まぁまぁ、お茶でも飲んで、ゆっくり話しませんか?」という気持ちを込めて。読んでくださる人を、お茶に誘う気持ちで。

そんなこんなで、もちろんnoteという場の範囲内ではあるけれど、結構たくさんの工夫や遊びをさせてもらい、楽しんでいるという感覚がある。これは、冒頭で書いた「くぅぅぅ〜〜〜!!」というものとは真逆の感情だ。転がされているんじゃなく、「自分が」ハンドルを握って、noteという記事の一つ一つをデザインし、実験を繰り返している感覚。(もしかしたらそれすらもnoteさんのデザインの陰謀(笑)かもしれないけれど)


秋山さんが手がけられたデザインの数々。それらをみて、そしてその裏側や考え方を読んで思ったのは、「実は、私もめっちゃデザインできるな」だった。

この「できる」というのは、能力を表す言葉じゃない。「誰でも可能だ」という意味だ。

私は「デザイン」の塊である。誰かがデザインした家に住み、誰かがデザインした電車に乗り、誰かがデザインした服を着て、誰かがデザインした髪型にし、誰かがデザインしたアクセサリーを纏い、誰かがデザインしたコスメでメイクをして、誰かがデザインしたPCで文字を打って、ピースオブケイク社さんが作ったこのプラットフォーム上で文章を書いている。デザインという薄い皮を、何重にも身に纏って出来上がった自分。まるで、デザインの「ミルフィーユ」だ。

考え方によれば、これは全部「デザインした人」に作られた、誘導されて出来上がった「私」なのかもしれない。でも、私はそうは思わない。

誰かがデザインしたものをいくら纏ったって、幾重にも重なって出来上がった私をデザインしたのは「私」だ。今日、白いニットを着て、水玉の毛糸の靴下を履いて、ピンクのアイシャドウを塗った私をデザインしたのは、「私」だ。

一つのデザインは、積み重なって、新しいものに生まれ変わる。私の一つ一つの選択や、些細な環境変化や細やかな感情の機微を乗せて、唯一無二のものになる。

私の着ているこのお洋服のデザインは、一つかもしれない。けれど、それを使う私は「ミルフィーユ」。たとえ同じお洋服を着ていようとも、あなたもまた、全然違う味のする、「ミルフィーユ」。

そう思うと、自分は「デザイナー」なんだ、と胸をはって言えちゃう気がする。唯一無二の、専属デザイナーなのよ!って(笑)。

秋山さんは本書の中で、外の世界に、デザインのヒントがゴロゴロと転がっている、とおっしゃっていた。だとすれば、その「外の世界」にいる私たち、立派な「デザインのヒント」じゃあありませんか??

「このお洋服、私が/僕が、デザインしたんだ!」
「へぇ!ところで、私のこの着こなし、どうよ?良いデザインでしょう?」

そんなデザイン合戦は、めちゃくちゃ自由で、めちゃくちゃ愛おしい。

Sae

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