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映画『私、オルガ・ヘプナロヴァー』をみる。

はじめに事件の2日前、彼女が家族へ向けて送った手紙を引用したい。

I am a loner. A destroyed woman. A woman destroyed by people ... I have a choice – to kill myself or to kill others. I choose TO PAY BACK MY HATERS. It would be too easy to leave this world as an unknown suicide victim. Acta non verba. Society is too indifferent, rightly so. My verdict is: I, Olga Hepnarová, the victim of your bestiality, sentence you to death.

「孤独ゆえ 手紙を書きます」から始まる予告編とも密接にリンクしている。「何度となく 居場所のない負け犬だと言われた」に対応するのは、冒頭3文「I am a loner. A destroyed woman. A woman destroyed by people ...」の箇所でしょうか。名も知らぬ自殺者の1人としてこの世を去るくらいなら。彼女が選んだのは自傷ではなく、他害行為でした。

間違いなく、今季最大の問題作。

ローンウルフ、つまりテロ組織と一切関わりを持たない個人が仕掛けた単独犯として我々の記憶に新しいのは2008年の秋葉原無差別殺傷事件、あるいは2016年の仏・ニースにおけるテロ事件でしょうか。本作はレンタルトラックでチェコの首都プラハの路面電車を待つ群衆の列へ突っ込み、後に史上最後の女性死刑囚として語られるオルガ・ヘプナロヴァーの半生を描いている。

三つの事件に共通している点は「車両突入による無差別殺傷」であること。つまり爆発物や武器の調達あるいは使用に際し必要な訓練/経験がそれほど肝要でない、語弊を承知で書けば「非常にカジュアルな手法である」ということ。換言すればそれはたとい上背がなくても、恵まれた体格でなくても、病を持っていても。あるいは、女性でも、簡単に選び取れるということ。

元来、社会派の作風が好意的に受け取られがちなベルリン国際映画祭の客層をもってしてもエンドロールでは圧倒的「沈黙」が劇場を支配した。カルト映画の鬼才ジョン・ウォーターズが2017年のベストに挙げていた逸作、今回オリジナル上演から実に7年越しでようやく迎え入れられました。個人的に、絶対外してはならない一本でしたので存分に深掘りしていきます。

複雑な生い立ちは、果たして「免罪符」たり得るのか。

父は銀行員、母は歯科医。傍からみれば経済的にも恵まれた家庭の生まれと映ります。しかし10代前半で薬物過剰摂取による自殺を図り、精神科病棟を経た後は職を転々とし、地元へ戻りながらも家族との連絡を断ち暮らしていた。一説によれば、幼少期からアスペルガー症候群の諸症状を抱えていたのではとも指摘される。些か踏み込み難い部分ですが、しかし物語の核心。

約束された人生ルートは時として「鳥籠」にも「足枷」にもなり得るもの。「らしい生き方」だとか「感性」だとか。そういったものは二の次三の次、あるいはノイズとして除外されてしまう現実がある。それは彼女とて決して例外ではなかったはずです。後に起こるであろう資産トラブルを予期して、家族の相続する農園へ火を放った事実は後に精神鑑定の段で明らかとなる。

映画は冒頭、彼女が眠りから目覚めるシーンで始まる。足早にトイレへ駆け込む仕草からそれがODに起因するものだとわかり「お前には自殺なんて」と母も嗜めた…しかし今一度冷静になりましょう。果たしてこれから起こる惨劇の「免罪符」として取り扱って良いものなのか、という根源的なテーマです。矛先は家族のみならず、最後は一般群衆にまで向けられてしまった。

さらに二つの側面から、屈折した彼女の性格を読み解いてみます。

一つは「性的少数者である」という点。家族との不和に耐えられず会話中も伏目がちなはずの彼女が、なぜか女性を前にした途端踏ん反り返って座ってみたり、キザな表情で迫ったり。パンツスタイルの着こなしを見るに、所謂「男性性」あるいは「タチ」のメタファーだったようにも解釈できた。後述の、異なる父称を語り始める場面はある種の伏線ではないかと推測します。

タバコの持ち方から特にそれが透けてきた印象。親指と人差し指、昔の刑事ドラマを彷彿とさせる。諸説ありますが、意思が強く頑なな性格に多いのだそう。しかしその手はどこかいつも震えていて上手く灰も落とせない、動揺を鎮めなければと思うと余計覚束なくなり口でふかす煙ばかり増える。「自分を大きく見せたい」と「自分らしくありたい」が常にせめぎ合っている。

もう一つは「ドライバー」だという点。運転=自分自身を乗りこなすという隠喩、車内ではその時々の心理状態(あるいは別人格)が如実に現れていた。客を乗せているはずなのに窓も開けずにタバコを吸い、意中の女性を乗せていても乱暴にアクセルを踏み込む。ある種の「解離」状態。優位に立とうとしあるいは怯えつつ表面を取り繕う、でいて享楽的。彼女の正体とは何か。

彼女の「歪み」をより大きくした要因について、些か深読みの過ぎる考察。

作中直接描かれていない部分にまで踏み込んでみようと思います。一番大きな要因は「父親の性格(あるいは偏愛)」です。主宰は当初「レズビアン」として彼女を認識していましたが中盤、それが大きく揺らぐ場面と遭遇します。それは豪雨の中、同僚のミラとテントで一夜を過ごすシーン。翌朝、誇らしそうにテントを畳んでいた彼の表情に何か底知れぬ違和感を感じた。

強風に揺れるテントを描くにしたって不自然、それはもう「一夜の関係性」を表す記号としては十分過ぎるほどの長さでした。(あるいは偏愛)と書いたのも、つまりあの一連のシーンに「父親」の人間性が暗示されていたような気がしてならないから。人里離れた場所を選ぶ=不倫愛のメタファーという読み筋も成り立つはず、終盤に「本当の母親は誰?」なんて彼女は嘯いた。

どこか男性には余所余所しく、女性には強く出る。ややもすると歪んだモデリング(模範学習)の辿り着いた先なのではないか。タバコを吸う仕草も、きっと父親を真似ていたのだと思います。あるいは10代を病院で過ごしてきた彼女にとって、思春期以降覚える「性の違和感」とも十分に向き合うことができなかったのかもしれない。まだ「クィア」という概念すらない時代。

計画を成し遂げたはずの彼女の目に、なぜか希望の光を感じられない。

自分を正当化したいのであれば、全てが正義に基づいて行われた行動だったのであれば。もっと誇らしく微笑んだり、余韻を噛み締めたりするものではないだろうか。なんてことをしてしまったんだ、そんな表情と映った。それなのに警官に脇を抱えられると案外スタスタ歩き始めるんですよね、さっきまでの平静を取り戻したように。本作の末恐ろしさが凝縮されていました。

刑務所内では一転、異なる父称を名乗り始めたり目に涙を浮かべるシーンもあった。天邪鬼なのか若さ故の過ちか、突如として反省と後悔が滲み出しほろ苦い後味が残るラストシーンへ。ミハリナ・オルシャンスカ演じる主人公のボブカットには、どこか若き日のナタリー・ポートマン『レオン』の姿が重なる。彼女の眼差しの奥に、確かにマチルダがいた。本当に驚きました。

彼女の最期がどんなものだったのかについては諸説ある。実に穏やかな様子で絞首台へ向かったとする記述もあれば。突如ヒステリーを起こし、命乞いまで始めたものだから慌てて看守が抱え込み…そんな証言すら残っている。想像力を失いたくはない、でもこれ以上の勘繰りはやめましょう。あくまで我々観衆は作品を通じて彼女の壮絶な半生と向き合っているに過ぎません。

彼女の正体は、結局、掴めそうで掴み切れませんでした。

一筋縄で行くレベルのカルト映画ではありません、映画史に残ると各方面で絶賛されたのも大いに納得した。勘繰りはやめましょうと書いた真意もそこにあります。オルガは時に虚実綯い交ぜにして、時に大人を試すような目で語る瞬間があって。精神分析医とのやり取りが全くキャッチボールになっていない辺りも含め、どこまでが事実でどこからが被害妄想かもわからない。

本当にわからないんですよね、「わかった気になってしまうのが怖い」と表現した方がより正確かもしれない。感情の制御が効かなくなり''まともな判断''も付かぬまま現実とフィクションの境目がグラデーションになっていってしまうのは、家庭環境は勿論のことむしろ彼女自身が抱えていたとされるASD特性故のものだったかもしれない。そう感じてからずっと心が苦しい。

家族の無理解とか、医学の未発達とか、人の縁に見放された主人公だとか。何かそういう言葉で言い包めてしまうのも違う気がする。今もなお、答えは導き出せないまま。食卓を囲むシーンで映画が締め括られるのも冷たく無常な感覚にさせた。愛娘は悲しい生涯を終えた、それでもなお「残された家族の生活は続いていく」という対比。忘れられない映画が、また一本増えた。

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