高校時代に見付けた、オスカー・ワイルドの息苦しい名言の思い出から

高校生の頃に「朝読書」というものが始まった。僕らの世代には懐かしい響きを持った懐かしい時間である。十五分くらい早く登校させて生徒に本を読ませる。それだけ。活字であれば本に制限はなかった。少なくとも僕のいた学校ではそうだった。なんでも、「ゲーム依存」の子供たちに読解力と集中力を身につけさせる意図があるみたいで、これはこれで如何にも文部官僚が好みそうな理念ではあるけれど、僕は案外この時間が好きだった。授業などやらないで一日中朝読書していたかった。というより学校など行かないでずっと部屋で朝読書していたかった。なんなら一生牢獄で朝読書でもいい。ただし飯付きでオナニーは自由。この世は桃源郷になる。現今の活字偏愛体質の起源はきっとこの時代にある。

僕のいた低偏差値高校には「問題児」がごろごろしていて、授業などまともに受ける人間は殆どいなかった。してみると教師の方にも差し迫った真剣味などあろう筈が無い。どうせこいつらに何を教えても進学などしないんだからせめて道を外さない最低限度の人間にはしないといけない、というふうの「声にならぬ徒労感と複雑な責務感」を全身に滲ませているようだった。誰も彼もが腑抜けていたし気抜けていた。半径五メートルが全宇宙であった当時の僕は、きっと日本中の高校がこんな調子なのだろうと信じていた。そうでないと知ったのは、まがりなりにも低偏差値大学に入った後でした。僕はそこではじめて微分積分三角関数を学び、ニュートン力学を習った。工学部においてはそれらは全て基礎課程以前に知っておくべきことだった。つまり高校で学ぶべき事柄だった。僕は「標準的な大学生」に比べて二段三段も遅れた状態から勉強を始めたのだ。だから寝る間は惜しみながらもそれ相応の努力を以て猛勉強した。結果ある程度の水準に追いついたけれども、それでもともとなのだと知るに連れていよいよ強烈の自己嫌悪に苛まれてきた。いまもそれを引きずっている。たぶん死ぬまで引きずることになる。何度も言うけれど人のこの手の煩悶は死ぬまで解消されない。とどのつまり高校時代もっと勉強しておけばよかった。月並みな悔恨だけれど胸の内は切実だ。

そんな高校だったが、朝読書は思いのほか皆真面目にやっていた。毎回国語の教科書を読む者、官能小説に『坊ちゃん』のカバーをかけて読む者、漫画を読む者、例によって様々の変則があったけれど、大体が没頭していて静かだった。当時の僕は卓球部の分際で尋常でないほど野球を愛していた。だからイチローやノーラン・ライアン(アメリカの剛腕投手)について書かれた本をアマゾンで注文して次々読んでいった。他には、さくらももこのエッセイや星新一のショートショートも仰山読んだ記憶がある。特に星新一の物語は地名も固有名も殆ど出てこないのでさっぱりしている。そこが好かった。この嗜好は今も随分残っていて、カフカなどを読み返す度いつも実感する。当時は一行一行脳内で朗読しながら舐めるように読んでいた。活字を読み慣れていなかったからだ。頁をめくるのが惜しいあの感覚を今は殆ど持たないけれど、それは活字愛が既に全身全細胞に沁み込んでいて「読むこと」が既に日常行為となっているからだろう。

ある日、本の題名は思い出せないけれど、僕はオスカー・ワイルドの名言を得た。よく耳にするあれだ。まだ記憶にあるまま書く。

「若い時の自分は金こそ人生でもっとも大切なものだと思っていた。年を取ってみると全くその通りと思った」

昂奮した僕は誰構わずこの名言を吹聴して歩いた。誰に向かってどんな具合に話したかまでよく覚えている。総じて反応は芳しかった。語調の切れ味を磨くため事前に稽古も積んでいた。アホなチンカス童貞に過ぎない僕が何を言っても人は感心しないだろうが、それが「偉人の格言」であればいくらでも唸らせることが出来る。寸鉄人を殺すことが出来る。無邪気な僕はいつもそう信じていたのだ。ずっと後になって僕は「私家版 文学名言集」を編んで周囲に配ったりしたけれど、そんな名言箴言格言嗜好もきっとあの朝読書時代に身に付いたものだ。こんな奴は僕だけではないだろうね。

現在の心境からするとこのオスカーの言葉は重たい。けだし至言である、と褒める事さえ憎々しい気がしてくる。人生の悩みの九割九分九厘は実は金で解決する、と薄々気が付きかけている。恋の悩みさえしばしば金の問題が絡んでいる。老後の悩みも殆ど金だ。就職の悩みも殆ど金だ。病気の悩みも金だ。引っ越しの悩みも殆ど金だ。大人になればなるだけ人の悩みは「単純」になる。「金」というフィルターを通してみると世の中はさも「単純」に見えてくる。この「単純」を俗臭といっていいのかもしれない。成長とはリアリストになるということだ。地面を離れてロマンを語らなくなるということだ。語らなくなるのでなくて語れなくなる。だから、世の中は所詮は金だ、と若者に諭す事をためらわなくなる。いつまでも子供みたいな夢を弄んでいないでちゃんと現実を見なさい、と今日もどこかの母親父親は息子に苦言している。ちゃんと現実を見なさい、とは詰まるところ、堅実に働いて生きろということに他ならない。生き物は飲まず食わずでは肉体を再生産できない。明日の労働力を作り出せない。この冷厳の事実をロマンの芳香で打ち消すことは出来ない。夢見る少年たちは自分の内側に消化器官のあることを真実忘れたい。本当は恋に生きたい。学問だけで生きたい。文学のみで生きたい。芸術的に生きたい。オスカーは正しい。けれどもそれは正しすぎて息苦しい。あまりに正し過ぎる言葉は人を息苦しくさせる。彼一流のウィットを利かせたところであまり変わらない。偉大で明晰の劇作家が言うのだから誰も反論できない。いつまでもどこまでも息苦しい。

こんなこと書いたから、また文学名言集を編みたくなってきた。今度はもっと本格的な代物を。これもいずれ出します。待っていてください。

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