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「選択」を繰り返していくなかで ―なにが自分のライフコースを決めるのか―


・はじめに

 我々は、いつも「選択」を繰り返しながら人生を創り上げている。それは、“意識的”に行われている「選択」と“無意識的”に行われている「選択」に分けられる。例えば、意識的に選んでいるものとして、受験・就職などの大きなライフイベントである。無意識的に選んでいるものは、日々の行動や振る舞い方だろう。しかし、何かしらの行動や選択の裏には必ず「元」になっているものが存在する。いわゆるブルデューの概念でいう「ハビトゥス」に当たるものである。この概念は、人生のライフコースを選択していく上でも重要なものであることは確かであると考える。


 我々が、常に「選択」を繰り返しながら生きているとき、その「選択」はどこからくるのだろうか。そして、どのように自分のライフコースを「選択」し選び取っていくのだろうか

・「選択」に潜む自明性

 アルフレッド・シュッツは、人が住む世界を「相互主観的」な世界であるとし、共在者(家族や友人など)の経験や今まで得てきた知識や触れた体験によって「人」は、行為や選択を選び取っていくという。しかし、そこには「端的な所与」 が存在しているという。「私」の周りに存在している者たちが「私」の選択や行動を決め、自明なものとして「選択」として顕在化していく。そして、疑いのないこととして体験されているものすべて、さらになる気づきが生じるまでは問題化されることのない事態(A・シュッツ 『生活世界の構造』 p.44)ということである。

 また小嶋(2009)も、経験というものは、必ず「誰かの経験」としてあり、まず何よりも「私の経験」としてある。

「私の」体験でありながら、それが「他者の経験」と根底にし、さらにより大きな一般性や普遍性を得るという点にいかなる道理があるのかとしている。加えて、ブルデューも『パスカル的省察』のなかでこう述べている。

 長い自律化の過程を経て確立したスコラ的世界に(ときに生まれたときから)浸っている者たちの世界と文化的所産についての考え方、自明性と自然性の刻印を押された考え方を可能にした例外的な歴史的・社会的条件を忘れてしまう傾向がある。


 自分の考えた「選択」であったとしても、それは何かしらの自明性に囚われた結果生じたものといえる。もちろん選ぶ行為は「私」というものが起こっているのかもしれないが、その選ぶ行為も選び取る「選択」も自明性に囚われた結果なのである。

・自己のライフコースを「選択」するとき

 何事においても人生に「選択」が付きまとうが、「人」はその環境に選択肢が大きく変わる。それは、なぜなのだろうか。一番考えられるものとしては「文化資本」の差だろう。

 前述したとおり、シュッツが共在者や今までに得てきた知識によって行動や選択を選び取っていくと述べていた。つまり、一定以上の教育水準を親から与えられ、様々な手段を選び持ち合わせている友人が周りに存在し、そして危機的な状況に陥っていた場合に適切に支援が入ることで、「私」という存在は無自覚に「選択」を多く持つこと“気がつく”のである。

それが、「私」が選んだと錯覚し自分の望む形であったり、起死回生のチャンスや結果に結びつくのである。


 より恵まれた階層にいる者であれば、生まれながらに「選択」の多さが保障されている。一方で、下層の人びとは「選択」を教育や他者から得る経験があるにもかかわらず受け取りづらいものになる。もちろん、誰しもがそう簡単に「選択」を選び取り、望む形に結果や過程を作り出すことはできないだろう。しかし、恵まれて環境にいるということは「選択」の多さと「選択」の使用方法が確実に存在する社会にいるということである。選び取る過程で余程のことをしなれば、多少なり違ったかたちで望む形に結果や過程を創り上げることはできるのではないだろうか。

・おわりに

 まとりのない意味のわからないものになってしまったが、言いたかったことは二点である。

一点目は、ブルデュー等もいうように「階層」の違いが色濃くあるなかで「選択」それ自体にも差が生まれていること。
二点目は、ライフコース上で常に選択を迫られている我々が、階層のもつ意味や共在者たちよって作りだされた自明性によって「選択」が狭められたりなくなっているのではないか。また、自己実現はおろか、「私」という存在が本当の意味で「私」として存在しえなくなっているのではないかという危機感である。


 私自身、ワーキングクラスのブルーカラーの親の下で育ち、中学・高校はある理由から進学できなかった。その後浪人をしても、いわゆる“底辺校”の大学であったために今でも私の階層は低いままだろう。しかし、いきなり社会に放り出されたことや「このままではいけない」といった感情から選択肢が増えて「選択」することができた。

 教育心理学の観点からみれば、これはレジリエンスの賜物で、あるいは授業内で取り上げていた「移動」のパターンともいえるだろう。ただ、疑問に残るのは、こうした選択自体に「自明性」が潜んでいるとしたら、私は一体何に影響さえていたのだろうか。

 本当に、レジリエンスが高く、共在者たちが私に文化資本の高い人びとがもつ様式を与えてくれただろうか。シュッツが“気付き”の重要性を述べているように、“気付”いたことで世界を疑問し、世界や自明性が変わっていったのかもしれない。今後、もし研究できる機会があればレポートの題名のような研究はしてみたい。そして、現象学の視点である“自明性を壊していく”をモットーに研究を続けていきたい。

―引用・参考文献―


A・シュッツ T・ルックマン 那須壽監訳 2015 『生活世界に構造』筑摩書房 p.44
P・ブルデュー 加藤晴久訳 2009『パスカル的省察』 藤原書店 p46
小嶋洋介 2009「純粋経験と現象学的経験―場の理論のための一考察」Azur(10),53-73

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