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いつまでも一緒にはいられないから


急なことでぽっかりと穴が空いてしまった。

事実として受け入れることができるのは、もう少し先になるだろう。

本当に自由な子だったけど、それが君らしさなんだよね。

家に一人でいるとき、どこにも居場所がないようなときも君という存在がいたことに、どこか当たり前過ぎてしまった。


どんなときでも「命」が存在しているというのは、大きな意味を持つ。


決して大きくない家でさえ「何もいない」というのは寂しさを増幅させる。でも、小さな存在がいるだけで安心を覚えるものである。


君と出会ったのは、6月の大雨の日だったね。

雨だから行きたくない散歩に出かけて、
水玉の中にいた君を拾い上げたのがきっかけ。


それから約16年近くも家族として過ごした。

最後ときも腕の中で、最初最後は同じなのが余計苦しくて。

あと4~5年は一緒にいられると勘違いをしていたなと思う。
いつもと変わらない姿に見抜くことはできなかったと反省している。


朝起きて自分の顔を見ると、必ず挨拶をしてくれた。

それには素直な気持ちで挨拶できていたのは、
ただ純粋な気持ちがあったのように思う。


どうしても過去の遺恨がある家族のなかで、
君だけが僕を傷つけなかったから。

でも、なんかお話してくれるようになったのは、
あの子が亡くなってからだったかな。

いつも何も言わずにそばにいてくれた。
話すことはできないけど、ただそばにいてくれた聞いてくれた。

まあきっとウザイな~と思っていたのかもしれないけれど。

今となっては、それが重要で大切なことだと気が付くことができた。

ただそばにいるだけなんて凄く嫌だった。

何もしてくれないってすごく無責任であるなって常に思っていた。


でも、とてもとても大切なことだったといなくなってから
分かるようになる。


人間は、自分の思考や経験がある以上、
あーだーこーだと言葉や態度に表してしまう。

でも君らは、聞いてるのか聞いてないのか分からないけど、
近くで聞いてくれる。

それに対して反応があるわけでもないし、
求めている解答をしてくれるわけじゃない。


僕らの都合のいいように解釈して、自分で自己開示しなければならない。


こういうのは、カウンセリング手法としては基本的なものであるけれど

君らがやると違うのは「話せない」ということが肝なのかもしれないね。


これから君はいない。


帰れば君だけが待っているということもない。

僕だけが家にいるときに、
誰かの存在があって寂しくないということももうない。


人生は、こうした「命」の連続であるだろう。

自分の人生を、自分が後悔しないように努力していくことも大切なのだ。


どうしたいのか、どうするべきなのか、
いやなら何を受け入れていくべきか、

どこで妥協をするのか、できないのならば“自分”をどうしていくのか

他者に引っ張られないためには、他者の影響を受けずに自分を保つためには

過去も未来も含めて自分であることを受け入れていくのか


ただ話を聞いてくれる君はもういない。

だから、これまで以上に「自分」で考えていなくてはならない。


もうこうした経験をしたくないから、新しく迎え入れることはないだろう。


そして、後悔というか、
自分の人生を自分がよいと思うように生きなくてはならないこと。

その大切さを教えてもらった。


当たり前は当たり前じゃない。


僕は恵まれた人よりも多くのことを学ぶ人生であるから

乗り越えていかなくてならない。少し経てば生活にも慣れるだろう。


自分の人生をもう一度考えよう。


ありがとうね。約16年間。

あのまま無視をすればよかったとは思わないけど

うちでよかったのかな。それは分からないけど…


今までありがとうね。またいつか会えた時は、また一緒にいよう。

夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。