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日曜の憂鬱と完全にお別れする方法

日曜日の夜は気分が落ち込んで仕方がない(以降、「ニチ鬱」と表記)という話は、学生・社会人問わず多くの人が口にすることである。言うまでもなく、月曜から始まる授業や仕事がいやだという意味である。

もれなく私の周囲からもそんな声が聞こえてくるので、今回はその現象について私なりに分析したうえで解決策の提示を試みたい。

ちなみに私は心理学の専門家ではない。ゆえに、この記事に科学的信憑性や学術的価値はほぼない。一つ言えるとするならば、私には94冊の大学ノートがあることぐらいだ。これは12年間ほど続けている日記(ジャーナリング、書く瞑想、書思)の結果である。日々自分の感情や気持ちを言語化してきた経験があるということだ。

さて話を戻して本題に入るが、「ニチ鬱」解決に向けた私の主張を先に述べておくと「意識的に日常を非日常化せよ」だ。これだけ聞いても、分かるような分からないような、という状態だと思うので解説に入る。

本題

1.
まず初めに、この世は相対的であるという話をしたい。例えば、谷の存在は山の存在を意味する。もし、ずーっと谷が続く世界があったら、その世界には谷という概念は存在できない。なぜなら、比較対象がないからである。この世界にはあらゆるものが存在しており、私たちはそれらを認識し、比較するからこそ、概念や名称が生まれているのだ。

この理論に沿えば、「ニチ鬱」があるのは「その他の幸」があるからだといえるだろう。

それは具体例で表せば、土曜の優雅な朝(人によっては昼かもしれないが)、友人との遊び、テーマパークや水族館へのお出かけ、などであろう。

これらをまとめて一言で表せば「なかなか毎日できないこと」といえそうだ。

2.
余談だが、「ニチ鬱」の比較対象とされている「その他の幸」言い換えて「なかなか毎日できないこと」は二つに大別することができる。境界となるのは「新規か既存か」という視点である。シンプルに表すと「やったことがないこと(0→1)」と「やったことがあること(1→100)」だ。そのため、この分類は人により異なる結果が出る。

3.
「なかなか毎日できないこと」は新規と既存で分類できるという話をしたが、私たちは新規活動と既存活動にいったい何を求めているのだろうか? いったい何が欲しくて、「新しいことをやったり、見たり、聞いたり」「やったことをあることを再度やったり、見たり、聞いたり」しているのだろうか?

答えは、非日常的体験である。非日常というと、隕石が落ちてきたりUFOにさらわれたり、ファンタジーな世界を想像する方もいるかもしれないが、ここでいう非日常とはもっとスケールの小さいものを指している。

さらに深堀してみよう。私たちは、非日常的体験から何を得ているのだろうか? 何を求めて必要以上にグダグダしたり、友人とテーマパークに行ったりするのだろうか?

答えは、刺激である。食事の際、味に飽きて調味料を加えることを「味変」と言ったりするが、私たちにとって週末の娯楽は日常の「味変」なのである。

4.
ここから話の後半に入るが、あらためて整理しよう。
・「ニチ鬱」は「その他の幸」があるからこそ生まれる
・「その他の幸」とは「なかなか毎日できないこと」である
・「なかなか毎日できないこと」は新規活動と既存活動に分類できる
・「なかなか毎日できないこと」は「非日常的体験」を通じて、私たちに「刺激」を提供してくれる

続きに入る。ここからは展開が早い。

ところで、「なかなか毎日できないこと」や「非日常的体験」という言葉を使ったが、これも最初に谷と山の例で示した理論でいうと、「毎日すること」や「日常的体験」があるからこそである。そしてそれらは、(この記事では)平日における活動のことを指している。ここでまた一つ情報を整理できそうである。

それは、私たちの生活は自ずと「平日(日常)と週末(非日常)で形成」されているということである。

5.
私たちの生活が「平日(日常)と週末(非日常)で形成」されていて、週末の終末(笑)で「ニチ鬱」症状が発生する。

どうやら、非日常→日常という変化にはストレスが発生しているらしい。

6.
私の主張は、「意識的に日常を非日常化せよ」というものであった。

そうすることで、非日常を持続可能なものとし、日常を消し去るのである!

というばかな話ではない。

「非日常的体験的要素を日常に取り入れ、非日常→日常という切り替えのスケールを小さくかつスパンを短くすることで、ストレスが軽減され、ニチ鬱とおさらばできるのではないか」という提言である。

7.
ここで終わってもよいが、あまりにも言いっぱなしなので、もう少し具体的解決策まで言及する。

特に言及の必要性があるのは、「非日常的体験的要素」だろう。漢字が連続しておりややこしく感じるかもしれないが、答えはすでに本記事内で触れてきたので、ほぼ逆算するだけである。

「非日常的体験」とは「刺激」を指し、刺激には「新規活動から得られるもの」と「既存活動から得られるもの」がある。

8.
これらをいかに普段の生活に取り入れるかだが、テーマパークや水族館、コンサートや映画館など、外的な環境変化による刺激は、時間的・体力的・金銭的な制限がかかり、不可能とは言わずとも日常生活に取り入れにくいだろう。

「外的変化による刺激」が日常に取り入れにくいならば、反対に「内的変化が大きい刺激」はどうだろうか。

9.
ここで新たな疑問が生まれる。内的変化とは何を意味するだろうか。私の答えは「価値観の変化」である。

皆さんは「相手と同じものを見ているのに感じ方が違う」という経験を少なからずしたことがあるだろう。例えば横断歩道で、黄色信号は危険と見なし絶対に立ち止まる人。一方、まだ余裕で間に合うと判断し悠々と渡る人。同じ状態に身を置きながら、個人の価値観により、選択、判断、行動、結果、評価が分かれてくる。

もし、眼鏡のように自分の価値観を自分の頭から取り外すことができたなら、別の価値観を身に着けることもできるはずである。

世の中ではこのことを自己変革とか、パラダイムシフトとか、コンフォートゾーンを抜け出せとか、脳をハックしろとか、過去の自分を捨てるとか、新しい自分と出会うとか、あれこれ言っているのであるが、それらは総じて「内的な変化」を説いているのである。

名称は何でもいいが、要は内的変化、日常において非日常的な要素をいかに意識的に取り込んでいくか。そこで生まれる試行錯誤が、ニチ鬱との関係性を断ち切るカギになりそうだ。

10.
非日常的体験的要素を日常に取り込むためのおすすめ活動だが、インプットとアウトプットの2種類に分けて考えるとよい。インプット行為としては読書や映画、アウトプット行為としては日記が手軽である。

読書や映画は、主人公を疑似体験する場として捉える。先程の言葉でいえば、自分以外の価値観サングラスをかけてみることを意味する。他方、日記は、言語化を通じて自分の価値観サングラスを外す練習として機能させる。毎日忙しくてまとまった時間を確保するのが難しい方や、読書や日記などの一人行為が性に合わない方は「他人とのコミュニケーション」に目を向け、従来とは違った捉え方をすることで、同様の効果を期待できる。

11.
意識的に内的変化を起こす。それにより日々に充実感を生んでいく。人生に対するコントロール感と納得感を高めていく。焦燥感や無力感などの不安は、ネガティブ思考のエサではなくポジティブ思考のバネとして活用する。こうした取り組みは、究極的には、やがて訪れる死を受け入れる土壌づくりとなる。

自ら考え、実践し、積み重ね、人生を主体的な姿勢で生き抜く。
ときに苦難し、ときに歓びながら、自らの変化を楽しむ。
こうした日々が真に「生きる」ということではないだろうか。

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