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他人に理解されないことの「ありがたさ」について

「もっと自分の気持ちを分かって欲しい」「理解して欲しい」「知って欲しい」

こうした感情は誰しもが自然に抱く。私も抱くし、皆さんも抱くだろう。(私がこうして「皆さんも抱くだろう」と書いたこと自体、理解して欲しい表れである)

ところで、「他者に理解される」と言うと、一般的にはポジティブなイメージで解釈される。その背景には(簡略化すれば)、他人に理解される=味方がいる=自分にとって良いこと、というような方程式が隠れていると思われる。

「はて、果たして本当にそうだろうか?」というのが、今回のテーマである。

他人に理解されるということは、純度100%でポジティブなことと言えるだろうか。もしそうでない場合、理解されることの弊害とは何だろうか。こうした点にフォーカスしてみよう。

最近どこかでこういう話を聞いた。

「私は小さい頃、虫捕りばっかりやっていた。それが好きだったから。そういう時に親になんて言われたか。"虫捕りばっかりやってないで、勉強しなさい"と言われた。子どもの一番の理解者であるべき親が、自分のことを理解してくれない。だから私は、"他人が自分のことなんてわかってくれるはずがない。親ですらそうなんだから"、そう考えるようになった。すると、私はどうしたか。どうにか伝えようと、表現するようになった。表現力は、そうやって養われるんです」

加えて少し私の話をする。私は表情や言動による感情表現が比較的少ない方で、よく「何を考えているのかわからない」と言われる。自分では出しているつもりでも、思っているほど伝わっていないらしい。これは私の、対人コミュニケーションにおける長年の悩みのタネである。

そこで先ほどの話を聞いて、これまで抱えていた小さなトゲが、すっと抜けたような気がした。なぜなら、私があまり感情表現をしないのは「これまではそれをする必要がなかったから」ということに気がついたからである。付け加えると、"身の回りに理解者が居てくれたがゆえに"表現力を養う必要がなかった、ということである。自らわざわざ気持ちを表現をしなくても、親や友人が察し自分に合わせてくれていた。そのことに気づき、自分が恵まれていたことを発見すると同時に、"だから上手く表現できないのだろう"と腹落ちした。

一般に理解者が居ることは良いことだと思われるが、一方で、理解を"してくれない"人がいることも、悪いことばかりではないのではなかろうか。

勿論、理解者は大切な存在である。彼らからは安心や勇気、自信を得られるだろう。想い、尊ぶべき存在である。しかし同様に、そうでない人からも、享受しているものがあるかもしれない。"何か"を学ぶ機会を与えてくれる存在といえるかもしれない。

このように、思わず見逃してしまいそうな物事の側面にも、注意を払って生きていたいものである。せっかく生きているのだから、この世を存分に味わいたいものである。

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