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【連載小説】息子君へ 170 (35 俺は賢くないなりに自分らしくやってきた-4)

 俺はそうだったし、君だって、賢くなんてならなくても大丈夫なはずなんだ。最低限、いろんなひとにいろんな気持ちになっているだけで満足できて、自分に何か伝えようとしてくれるひとに、いつでも自分の気持ちを動かされてあげられるひとであれればそれでいい。何をしているわけでなくても何かを感じて、特別何を話しているわけではなくても何かを思って、その感じたことを相手に話して、相手が話してくれたことにまた何かを感じられたなら、それでその相手と何をしているわけでも楽しくやれる。それは相手を面白いひとだと思いながら過ごすことで、それによって相手は君と一緒にいることをうれしく思える。君はそのひとがそのひとらしい感じで目の前にいてくれるだけでずっと何かを思っていられるひとになれればいい。
 君は俺の息子なんだから、ぼけっとしているだけで楽しい若者になっていけるはずなんだよ。自分はそういう身体で生まれてきているんだと思ってもらえるように、この手紙のようなもので俺の感じ方がどういうものだったのかということを書いてきた。君が自分の気持ちを自分で確かめながら生きてくれれば、きっとそうできるはずなんだ。
 ただ、俺が育った時代と君が育つ時代とでは、子供や若者が生きていて自分の気持ちを自分で感じる瞬間がどれくらいの頻度で自然発生するのかということで、大きな違いがあるのだろう。
 今ですら、世の中では、公的な空間では、楽しいこととか面白いことくらいしか、やったり言ったりすることが許されていないかのようだったりする。君の育つ世界では、その傾向はもっと徹底されたものになっているのだろう。
 それは仕方のないことではあるのだろう。世の中全体が、みんな疲れているし、みんな余裕がないということになったというか、みんながやる気のなさを当たり前のことに思うようになってしまった。そして、やる気がなくてもできるのは、楽しいことと面白いことだけなのだ。楽しいこととか面白いことというのは、やった場合の結果が見えてもいる。うまくいかなくて悲しくなったり、傷付いたりしなくていいというのも大きいのだろう。
 楽しいことだけが、誰からも咎められずに許されているのだろう。楽しい話だけが、迷惑そうな顔をされずにすんで、発言権を奪われずにいられるのだ。
 大人たちの世界では、昔から一部の気取った界隈を除いてはそういうものだったのだろう。仕事以外のことに真面目になってもいいのは、子供と若者だけだった。けれど、君の育つ時代だと、目に映る何か意味ありげなことをしている大人の大半もビジネス意識でしか物事を感じていないような、ひとをうまいこと笑わせようとしてばかりいるようなひとたちばかりになっているのだろうし、子供たちの大半も真面目になることをひたすら避けながら楽しいことだけをしようとするようになっているのだろう。
 今だって、仕事以外のことに関して、真面目なことを考えがちな中年とか老人というのは、配偶者が同類だったりするわけではなく、何かの市民団体とか何かの支援団体に参加でもしていなければ、もれなくひとりぼっちな気持ちで生きているひとたちなんじゃないかと思う。世の中で真面目なことを楽しそうに話し合っているひとたちは、結局そういうことを真面目に話すことが仕事になっているようなひとばかりなのだと思う。むしろ、仕事でしか真面目な話はできないから、自分が真面目になりたいことを真面目に話していられる働き方ができるように仕事や職種を選んで、それを守っていられるように仕事を頑張っているひとたちもたくさんいるという感じなのだろう。
 そうできなかった真面目なことを考えがちな中年たち老人たちは、みんなの中に混じっているときは、まるで抜け殻のようにして楽しい話に相槌を打って、そして、ひとりになるたびにため息をついているのだろう。そして、感情のコントロールが利きやすいひとたちは本を読んだり映画を見たり、その体力もなくなったらもっと気楽なコンテンツを消費してやり過ごすようになっていくのだろうし、不快感や屈辱感を自分でコントロールしきれないようなひとたちは、つまらない気分でいる自分にうんざりして、そのうち延々とアルコールとかギャンブルなり娯楽なりに没頭して、一日一日をうやむやにしていくことで、だんだん何もまともには考えないことが普通になってくるようになるまで逃げ続けていくのだろう。
 けれど、そういう真面目なことを考えたがるひとたちも、割合としては減っていっているのだろう。俺の世代なら、若い頃ですら真面目に考えてしまいがちなひとは圧倒的に少数派だったし、子育てが落ち着くくらいの時点では、仕事のこと以外では楽しいことと面白いことだけしか考えたり喋ったりしないようになっているひとがほとんどと言えるくらい大多数なんじゃないかと思う。
 疎外感を感じすぎずにすむように、他人とある程度お喋りする機会を保ちながら生きていくには、真面目にものを感じている顔をひとに見せてはいけないというマナーを受け入れるしかない。もちろん、インターネット上の教養系のコミュニティーに入り浸るとか、市民運動とか政治活動をするとか、そういうことはできるのだろうけれど、それは大多数のひとにとっては簡単なことではない。自分でものを考え続けるというのはとてもたいへんなことで、だからひとは友達や人間関係欲しさに宗教にはまってしまったり、スピリチュアル系のあれこれとか、スピリチュアル系とごちゃ混ぜになったエコロジー系のひとたちの仲間になったりしてしまうのだろう。
 それはどうしようもないことではあるのだろう。ひとは寂しいし、ひとはたいして自分の感情を生きていないし、ひとは集団の中で自分がいい扱いを受けられるために何でもしてしまう。そして、楽しさとはマナーでありルールなのだ。そうなったときに、もうほとんどのひとは、他人と楽しいことでしかつながれなくなる。そうしたときに、楽しい範囲でしか何もできないし、何も言えなくなるというのは当然のことなのだろう。
 みんないろいろ思っているのだろうに、どうして楽しい話しかしようとしないのだろうと不思議になることは多い。どこにいても、その場のノリや、その場で楽しいとなっていることをなぞるしかなくて、そういうノリでいる自分でしか人生を経験できないことで、どんどんと楽しげなパターンに自分の人生を乗っ取られていく。たくさんゲームをして、上達して高得点をとれるようになったからといって、自分の人生が充実したことにはならないように、楽しげな雰囲気にうまく同調して、楽しげなやりとりをうまくなぞれるようになって、ひとを不愉快にさせないようにできるようになったからといって、それで自分の人生が充実しているとは感じられないだろう。
 言いたいことをそれなりに誰に対しても言えていて、自分の言うことがみんなを楽しませていたり、みんなの役に立っていることを日々確かめられているというのが、その他大勢ではない存在で生きられている状態だろう。そうじゃないのなら、それなりに楽しくやれていて、家族とそこそこ楽しくやれていたとしても、たいして自分の人生が充実しているとは感じられないのだろうと思う。言いたいことを言って、それを楽しんでもらえていないのだから、どうしたってそうなるのだろう。
 もちろん、楽しいことをしていられたらそれでよくて、特に自分として思うことも言いたいこともないひとは、そんなふうに充実していなさを感じたりはしないのだろう。けれど、そういうひとはそもそも自分を生きていないようなものなのだし、楽しかったとしても、自分の人生が充実しているという感じではないのだろう。
 別にみんなそんなものなのに、人生に充実感を求めるようなことを言っているのはおかしいと思うんだろうか。けれど、老人にアンケートを取れば、ほとんどのひとがもっとやりたいことをやればよかったと後悔しているのだ。
 それは当たり前のことだろう。楽しければいいんだと思って、言いたいことも言わず、笑えそうなときに笑っておくというのを多少頑張ったくらいの、自分の気持ちに蓋をしながら他人を冷笑してばかりの楽な生き方をしたって、どうせ後悔し続けることにしかならないんだ。思いたいことを思って、言いたいことを言って、そばにいてくれるひとに喜んでもらえて、思うようにならないことばかりでも、したくないことはなるべくせずにおけて、そうしたいと思ったことをちょくちょくちゃんと選べたなと思える人生を送れた方がいいに決まっているのだ。
 単純な話だろう。自分が思っていることや、自分がひとに言っていることに、本当にそうだなと思いながら日々を生きていけるのがいいに決まっているんだよ。だから俺はずっと、自分の気持ちを自分で感じて、自分がしたいようにしないといけないと繰り返してきたんだ。もちろん、そのためには、ただ自分の気持ちを自分でよく感じようとしているだけでは難しいのだろう。思うように生きていても、他人から排除されたり、攻撃されないようなひとになっていないと、そうはなれない。その状況に合わせてうまく振る舞うだけじゃなくて、周囲に働きかけて影響を与えられるひとになれていないといけないのだ。
 そのためには、自分のことばっかりじゃなくて、ひとが喜んでくれたらうれしいと思って、そのために自分のことより相手のことを優先できるようになっている必要があるのだろう。そうでないと、思い浮かぶことをそのまま喋っていても、嫌なやつだとも自分勝手なやつだとも思われないようなひとにはなれない。
 逆に言えば、世の中の障害があるわけでもなく生きづらいひとたちというのは、結局のところ、自分のことしか考えていなくて、思ったまま喋ったらひとの怒りをかったり、自分のしたいようにすると他人から排除されてしまうような行動パターンのひとたちなのだろう。そういうひとたちの多くが、みんなにとってその他大勢でしかない場合が多いから気にならないだけで、たまに思いついたままに行動するたびに攻撃されて、いつもずっと我慢して耐えていないといけないのが辛いと苦しんでいるひとというのが、みんなが思っているよりもはるかにたくさんいるのだろう。
 もちろん、自分勝手なことをしなくても攻撃的に扱われるひとたちもいるし、それだけの問題ではないのだろう。みんなが自分をバカにしてくることにすら迎合してへらへらし続けないかぎり、気に入らないと思って敵意を向けてくるひとがたくさん出てくるというかわいそうなひとも世の中にはたくさんいるのだろう。
 多数派に邪魔されずに、自分の好きにするためには、邪魔をはねのける力が必要だし、自分が浮いていることでバカにされない方が関わりたいひとと関わりやすいし、そのためにも、見た目にしろ、振る舞いにしろ、言動にしろ、ダサくないというのがとても大事になってくる。
 おかしなことだけれど、心のままに生きていこうとすると、見た目のことがどうしても大きな問題になってくる。ダサかったり、しょぼかったりすると、自分の思ったことやしたいことをいちいち否定されて、おとなしくしていろと言われてしまう。言われなくても、そういう顔をされる。大半のひとが自分にそんなふうに顔を向けてくるのなら、自分の心が思うままに生きることなんて不可能だし、自分が世界の中心のように思えるわけもないのだろう。
 君は男の子でラッキーだった。見た目が悪くなくて、極端にチビとかバランスの悪い身体でなくて、あまり知能が低くなくて、ダサくなくて、弱そうじゃなければ、嫌なやつに近付かなければ、ひとから屈従した態度を強制されるような視線を受けずにいられる。見た感じしょぼくなくて、喋ってもしょぼくなければ、誰も君を気軽に小突いてはこない。そういう状態を維持できるように、誰でもとりあえず小突こうとするタイプのやつにも、こいつを小突いてもなんとなく面倒くさそうだと思われるような態度をとっていればいい。そうすれば、あとは君はしたい顔をして、思いたいことをして生きていける。せっかく男で見た目が悪くなくて生まれてきたんだから、まわりのひとが自分をどう扱ってくるのかに付き合わされてばかりで時間を過ごさずに、したい顔をして、その顔のままひとの方を向いて、まっすぐ喋りながら生きていけばいいんだ。
 自分の力で他人に影響を与えて、自分がやりたいことをできそうな状況や環境を作って、やりたいことがやれて、それがひとを驚かせたり感動させられたことで満足する。そういうことが一番素晴らしいんだよ。そして、当然のことだけれど、自分が思ったままに話しているのを喜んでもらえたらそれが一番うれしいことだし、自分がそうするのがいいと思ったことをやってひとがそれをいいと思ってもらえるのが一番うれしいんだ。
 それができないひとたちは、世の中で楽しいこととか面白いことということになっていることをやることで喜んでもらうのだろうけれど、自分の気持ちのままにやってあげたことで喜んでもらえる方がもっとうれしいのはどうしようもないことなんだ。恋愛でもそうだし、何かを作るにも、仕事で成果を残すのにしてもそうで、君が正解をなぞろうとしなかった度合いが高いほど、君は自分がうまくやれたことにうれしくなれるし、君が自分の気持ちの通りに振る舞って、気持ちのままに他人に顔を向けられていた度合いが高いほどに、君は自分がうまくやれたことにうれしくなれるんだ。
 この手紙のようなもので書いてきた、自分の感情を生きないといけないとか、自分の気持ちを自分で感じてあげないといけないと繰り返してきたのは、君にそんなふうに生きていってほしいからなんだ。集団の中での人間のことをあれこれ書いてきたのも、集団の中での人間の感情の動きと、そういう力学で動いている世界そのものが、君がそうやって生きることを邪魔してくるから、君はそれをはねのけていくつもりで生きていかないといけないというのがわかってほしかったからなんだ。
 集団に埋没すると、自分の気持ちで生きられない。逆に自分の気持ちで生きようとすると、世界のスピードについていけない。人間たちがそれぞれ何かを思いながら何かして、それが集団になって、社会になって、世界になっているだけなのに、世界のスピードと人間の心の動くスピードはかけ離れたものになる。
 世界のスピードとは全く違うものとして、心のスピードがある。集団の中に移動するたびに、ひとは自分の心を失ったみたいになってしまう。それは集団内の自分が快適であるようにということしか考えない状態になっているときには、そのひとは自分の心のスピードで生きていない状態になるからなんだ。
 頭はすぐに目の前の何かに何かを思うけれど、心は何かを感じたからってすぐに何かを思うわけではない。それなのに、みんなが自分の心を待つことなく、心とは別の顔をしながら、本当にそう思っているわけでもないことを喋り続けている。
 多くのひとは、その場にいるみんなに自動的に共感して同調しようとする肉体を持っている。目の前にいるのが自分の感情をあまり自分で感じていない状態の相手でも、とりあえずは相手の気持ちの動きを感じ取ろうとして、なんだか変な感じだし、よくわからないなと感じて、そこからはそういう相手として応対する。ひとが集団でいるときというのは、ひとはその場の状況に同調しつつうまく振る舞おうとしているばかりだから、身体が自動的にそこにいるひとたちの気持ちを感じ取ろうとしても、あまりまともに何かを感じても思ってもいないのが伝わってくるばかりで、それをずっと感じていても居心地が悪くなってくる。だから、集団でいるときは、みんなさっさとみんながなぞっている楽しげなトーンに同調して、その場のノリにうまく合わせられている心地よさを維持しようとするような態勢になっていく。そして、その態勢というのは自分の感情を自分で気にしなくなっていくような態勢なのだ。
 集団に埋没すると自分の感情を生きられなくなるというのはそういうことで、君だって、集団によっては、自分の感情とは別の顔をしたままで過ごすしかない関わりもあったりするのだろう。誰だってそうで、けれど、そうではない関わりを持てる相手や仲間がいて、そこで自分の自分らしさを確かめられているひとは、自分の気持ちを自分で感じていないままひとと関わることに慣れきってしまわずに、自分らしい自分を自分だと思ったままで他人に顔を向けられる状態に踏みとどまっていられる。そうじゃないひとたちが、ふとするたびに、まるで心がないみたいだと他人から思われているということなんだ。

 君は心のスピードで時間を過ごしているのが基本になっているひとにならないといけない。集団ですごしているときに、そこで流れる時間が速すぎることにうんざりしながら、それでもそういうひとたちを眺めながら、自分が何を感じているのか自分で感じなくてはいけない。そうしないと、気持ちと気持ちを感じ合いながら一緒にいられる相手と時間を過ごせるときに、その時間を満喫することができなくなってしまう。
 ここまで読んでいれば、心のスピードで生きるというのがどういうことなのかということはわかるだろう。そして、それが自分の気持ちを自分で感じようと心がければそうなるようなことではないことも、なんとなくはわかっているのだと思う。
 抽象的な話になるし、文章にしようとすると伝わりにくかったりはするのだろうけれど、君が自分の心のスピードで生きようとするときに、それがどれくらい、どんなふうに心を動かされながら生きていくことなのかということを伝えられたらと思う。
 もうあらかた君もわかっている内容にはなるのだろうけれど、それでも、きっと君が思っているよりも、自分の心に寄り添うということは、面倒なことで、疲れることなんだと思う。
 人間は身体が感じたままを生きることができない。人間は意識しているものを現実だと思って、自分が思っていることを自分が思っていることだと思ってしまう。どうしたところで、人間は異様に鈍感で、どれだけ何を知ったとしても、どこまでいっても鈍感な存在なんだ。自分の心が動くスピードに寄り添って何かを感じようとするというのは、そういう人間の果てしない鈍感さを鈍感なりに確かめ続けるということなんだ。
 人並みよりは自分の心の近くを生きてきた俺が、どういうことをどんなふうに感じてきたのかというのを読んで、俺の息子である君は、自分の心に寄り添いながら生きられたとして、自分がこれからどんなことにどんな感じ方をするようになっていくのかということを思い浮かべてみることができるのだろう。
 そんな自分の未来の可能性に何か思ってくれたならなと思う。そうしたら、君の父親だからできることができたことになる。君のお父さんになってあげられなかった俺にとって、そんなにうれしいことはないんだ。




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