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【連載小説】息子君へ 169 (35 俺は賢くないなりに自分らしくやってきた-3)

 賢くならなくていいというのはそういう意味なんだ。俺がそうしたように、君も自分の生まれつきの身体なりに生きればいいのだと思う。俺は物知りになりたい気持ちがずっとなかった。物知りに憧れる気持ちもずっとなかった。俺がそうしたように、たいして賢くもなれないのにあれこれ考えようとしすぎたり、利口そうなことを言ったりやったりすることで自分を賢いと思おうとしたりとか、そんなことはせずに、あまり賢くないひとなりに、自分がその場でなんとなくそうするのがいい気がしたことをして、自分は確かにそう思っているんだと自分で自分のやっていることや言っていることにしっくりきながら生きていけばいいんだ。
 けれど、もしかすると君は世の中の賢いひとたちを見て羨ましい気持ちになったりしているのかもしれない。俺はそうじゃなかったからわからないけれど、きっと賢くなるのは気持ちのいいことなんだろう。ひとの知らないことを知っていると、自分がすごいと思えるのだろう。
 けれど、俺が俺の肉体を生きてきた経験からすると、人生の中の楽しい瞬間というのは、知っているものにやっぱりそうなんだなと思えたときではないんだ。むしろ、よくわからないことを、どうなんだろうと思って夢中でそれに触れて、どうなんだろうかと確かめられているときこそが、何よりも楽しくてしょうがないときなんだろうと思う。楽しみ方を知っているものを楽しんでいるときより、自分を引き付けてくれるものに、どうしたらもっとそれを楽しめるのだろうかと思いながら、もっとそれを楽しめる受け取り方を探りながら、その感触に夢中になっているときの方が、自分の心の全部を使って楽しめているような時間になる。音楽を聴いているときでも、何かを食べているときでも、セックスしているときでも、感じているものからそのもののよさを教えてもらいながら、自分の身体でもっとそれを楽しめるようになっていく時間こそ、そのものを一番楽しめているときなんじゃないかと思う。それについて知らないからこそ、それを知っていくという楽しい時間を過ごすことができるのだし、それを楽しみたいときには、それについて知らないというのは、とてもうれしいことだったりもするのだ。
 そもそも、自分が感じることより先に、それについて本で読んで知っているというのは、そんなにいいことなのかということだろう。それは自分の経験を本で読んだことに先回られているということでもあるのだ。そして、本で読んだことは、とても本当な気がしてしまう。本はそれなり以上のひとがそれなり以上に考えたうえで、それなりに調べられたりしたうえで書かれていて、それなりに正しかったりしてしまう。それについて本を読んで知っていると、それを実際に目の前にしても、本で読んだ以上のことは何も思い浮かばなかったりしてしまうことは多いのだろう。
 そのものについて知っていると、自分の知っていることを確かめるようにそれを見てしまう。知れば知るほど、世の中はちょっと知っていることだらけになって、もっと細かいことが気になって、それに気がいってしまう。賢いひとたちの頭の中はそんなふうに騒がしかったりするのだと思う。
 それに比べれば、俺の頭はいつもほとんど空っぽだったのだと思う。とにかく、何をしていても、知っていることを思い出すことが少なかった。音楽を聴いていても、ここのメロディーは何に似ているとか、このリズムパターンは何とほぼ同じだとか、歌詞が何の引用だとか、言われれば確かにそうだと思うようなことでも、自分ではめったに気が付かなかった。すぐに気付いた方が自然な気がすることもあるし、自分はバカなんじゃないかと思ったりもするけれど、そもそもひとと喋っていても、相手が誰かが言っていたことをそのまま言っていたり、前に言っていたのと同じことを言っている気がしても、たいして気にもならず、そのまま普通に聞いてしまうし、音楽を聴いているにしても、そういうことに気付こうという気がなかったということなのだろう。
 音楽の場合、そういうことに気が付かないというのは、作り手がそんなふうにいろんなものを参照して取り込みながらその曲を作りあげていくのを楽しんだ、その楽しみを一緒に楽しめていないということにはなるのだろう。けれど、そういうことに気が付かないような楽しみ方をしていることによって、俺は俺なりに、賢いひとたちとはまた違った楽しみ方で何もかもを楽しんでこれたのだとも思っている。
 いろんな音楽のいろんなよさを知っているひとは、新しく聴いた音楽のよさもすぐにわかって、そのよさが他の素晴らしい音楽の中でどういうものとして位置付けられるのかもすぐにわかってしまうのだろう。逆に、そういうことがわからなければ、なんだかわからないけれどすごいとわくわくできる。もちろん、わかることがあるからこそすごいと思えるものがあって、そういうものも含めて興奮できるのだから、わかっている方がより楽しめているのはそうなのだろう。けれど、多くの場合、いろんなことを知っているひとたちが、すごいからすごいと楽しめるのは、あまり何も知らないひとが、よくわからないことで、すごくなくても自分にとっては新鮮なことで楽しめたり、すごくなくても自分の好みで、好みであることに興奮できるというような楽しみ方とはだいぶん違っているのだろう。知っていることが多くなるほど、知らないひとたちのような楽しみ方はできなくなっていくものなのだと思う。
 もちろん、賢いひとたちはそういうこともわかっているから、いろいろ知っていることがあれこれ結びついて自動的に思考が進んでしまいつつ、一度そういう思考を脇において、先入観なしで見たとしたらどうなのかということを意識的に試すようなこともするのだろう。知っていることでものがちゃんと見られなくなるということではないのだとは思う。
 それでも、どうしたって知っているひとたちは、知っているひとたちなりの楽しみ方にこそ喜びを見出すようになっていくものなのだと思う。音楽でも食べ物でも映画でも小説でも何でもそうなのだろうけれど、それについて多くのことを知っていけば知っていくほど、それについて多くのことを知っているひとっぽい楽しみ方をするようになっていくものなのだろうし、そういうひとっぽいとらえ方をして、そういうひとっぽいそれについての語り方をするようになるのだろう。そして、それが文化というものだし、文化というものに敬意を持って、文化を文脈にしたうえでその文化を楽しんで、その文化について語るとはそういうことなのだろう。そして、そうやって知識を蓄えて文化を文脈にしながら物事をとらえたり語ったりするというのができないひとだったという意味で、俺は自分のことを賢くないひととして生きていると思っているんだ。
 この手紙のようなものでも書いてきたけれど、共感によって相手の身体感覚を自分の身体に写し取っていても、相手がどういう感情なのかというのは、自分が体験したことのある種類の感情しかまともには認識できない。同じように、そういう観点を知らなければとらえられない物事のとらえ方というのがあるし、その言葉や概念を知らないと理解できない物事の理解の仕方というのがあるのだし、知識こそがものの感じ方を作っていくものではあるのだろう。賢いひとたちのように考えたり語ったりできるようになろうとしなかったとしても、何かをもっと知っていくことでしか、賢いひとたちやすごいひとたちが作り出してきたあれこれをもっと楽しめるようにはなっていけないのだ。
 知識があるというのは知識があるというだけのことではないのだ。目の前の出来事と一緒にそれに関連する知識が頭の中で照らし合わせたうえで、目の前のことはどういうことなのかが認識される。それについて知識があるひととないひとでは、知覚したものは同じでも、認識した内容が違っているから、その場にいて体験したことの内容も違ってしまう。知識がないと、把握するための切り口や観点が自分の経験にしかなくて、何を見るにも自分の経験したことのあることと似たようなことだと卑近に扱ってしまいがちになるのだろう。
 何についても自分の経験に結びつけてしかリアクションをくれないひとというのはいて、まわりのひとにうんざりされているものだけれど、それはひとの話を聞いているときに知識を使えていなかったり、使える知識がないからそうなっているのだろう。それが世の中で言うバカということなのだろうけれど、かといって、それは頭の悪さでも、知識のなさでもないのだ。相手の話を相手の文脈で受け取ろうとするために、ぱっと見て自分がそう思ったことだけではなく、ひとはそういうときにそんなことを思ったりするという、自分がこれまでに蓄積してきたいろんな知識や経験の中で、目の前の状況に近いものを照らし合わせながら、できるだけ相手の気持ちに寄り添ってあげようというすることができないという、異様に鈍感なひととしてバカはそこにいる。逆に、ひとの気持ちに寄り添ってあげられるようにしたいという気持ちがあれば、自分がひとの気持ちをあんまりよくわかってあげられないものなのだなということは日々思い知らされることだし、そこで本を読もうとしたりするかはひとによるとしても、いろんな経験をするたびに、そのときそのときの相手の姿や様子を忘れないでいて、また何かあったときにそれを自然と思い出すようになるのだろう。
 教養とはひとの心がわかることという言葉があるけれど、それもそういうことなのだろう。人間や社会についての知識が教養で、それが少ないほど、相手が置かれている状況に何か思うにも自己追認してすませてしまう度合いが高まってしまうのだ。
 そして、教養でひとの心がわかるというのが、俺がこの手紙で書いてきた、ひとの気持ちを肉体的に感じていないという状態というのとは、また別のことだというのもわかるだろう。知識は知識として自分の感じ方の土台になるとして、それとは別のこととして、君は誰かと向かい合ったときに、ひとまず気持ちに気持ちで反応できるような態勢にならないといけないというのが、俺がここまで書いてきたことだった。賢くならなくていいというのはそういうことで、ちゃんと相手の気持ちを感じようとしているのなら、君はそれ以上に賢くなりたがることはなくて、わからないなりにいろいろ思って、興味を持ったことを知ろうとすればいいし、君の人生なりに人間を知っていけばいいということなんだ。
 いろんなものを実感を持って感じられるようになっていくことこそ、自分の身体と自分の心にしっくりきながら生きていくということだろう。共感に引っ張られすぎてあまり頭の中で腰を据えて考えられないし、頭の回転も速くなくて、過集中することも少なそうな肉体で生まれてきたはずの君にとって、しっくりくる知識の取り入れ方というのがあるはずなのだ。心が頭より肉体の方に近くできているのだし、あまり頭でっかちに知識を使いたがるようにしてものを見ようとしても空回ってばかりになるのだと思う。君の場合は、無知のままでいいと思って、そのぶんしっかりとひとを感じようとして生きていればよくて、そうすれば、むしろ無知なことによって、思ってもみないことをたくさん体験できるし、他人にもたくさん驚かせてもらえたり、思っていた以上に誰かとわかりあえたりすることがたくさんあって、自然と無知なりに生きることを楽しんでいられるようになるのだと思う。
 俺はそういうような、知らないからこそ自分で好き勝手に想像しながら手探りする時間を楽しんできた。ずっとそうだったし、そのまま大人になったけれど、ひとからちゃんと話を聞いてくれると思ってもらえているし、作る料理を美味しいと言ってもらってきたし、セックスを喜んでもらってきた。
 頭で知っていることから考えずに、肉体で感じてきたことから思い浮かべることばかりをやってきて、賢いひとにはなれなかったけれど、いろんなことで喜んでもらえるひとにはなれた。俺は自分が自分の身体に合った人生を送ってこれたと思っているし、だからこそ、それについて知っているということが、常にそれについて知らない状態よりよい状態だと思うのは間違っているんだというのを君に伝えたいと思っているんだ。
 俺が君のお父さんになれるのなら、君が小さいうちは、何かに興味を持ったとしても、それについて延々と動画とか本とかを見られるようにしたりはしないかもしれない。実際に身体で感じて何か思うのと、映像で見たり知識として知ったものを頭の中で想像するのでは大きな違いがあるし、身体で感じたもののリアリティが常に君の中で優勢であり続けるように、頭の中で情報が蓄積していくのを楽しんで時間を過ごすのはほどほどにさせるのかもしれない。
 小さいときからたくさん本を読んで、世の中の神秘とか人間の業の深さみたいなものにたくさん触れてしまうと、自分が頭の中で想像してしまったものが、自分の今までの子供としての人生で体感してきたものとかけ離れた恐ろしいものに思えてしまったりもするのだろう。映像なんかでもそうで、現実を生々しかったり神秘的に切り取った映像をたくさん見ているうちに、生命とか世界の構造の精巧さとか、その揺るぎないまでのスケールの大きさに圧倒されてしまったりするんじゃないかと思う。そういうことに興味をどれくらい持つのかは子供によって違うところだろうけれど、そういうことにのめりこんで、すごいと感じてしまうものにたくさん触れる生活をしていたのなら、自分の心をひきつけるものということでは、目の前の世界よりも、いろんなイメージが詰め込まれた頭の中の世界の方がリアルなものに感じてしまっている状態になっていったりもするのだろうなと思う。
 知的好奇心の強い子供は、宇宙とか、生物とか、そういうちゃんとした神秘を神秘だと思いながら育っていくことになるのだろう。俺だってテレビくらいは見ていたし、宇宙はすごくて宇宙は不思議らしいということは知っていた。けれど、宇宙が不思議らしいことに興味を持たなかったし、もっと知ろうとしなかった。宇宙以外でも、何かを知って、そういうものなのかと思って世界を見るようになって、すごいと思ったようなことは一度もなかったんじゃないかと思う。そして、俺はその後の人生も含めて、自分の知的好奇心のレベルからすれば、宇宙の不思議になんて全く気が付きもしなかったのは、むしろ俺には自然なことだったんだろうと思っている。
 俺は空の色が変わることを不思議に思っていた記憶がない。きっとそういう質問を親にしたことはあるのだろうけれど、少なくても、その疑問を引きずりながら空を見ていた期間はごくごく短かったのだろう。そして、いまだに空の色が変わるのがどうしてなのか俺は知らないし、学習教材とかでさらっと読みはしたはずだけれど、一度もそれを理解したことがなかったのだろう。
 けれど、本を読んだり、そういうドキュメンタリーでも見なければ、何千回空の色が変わるのを見ていても、ただ空の色が変わるというだけにしか感じないのは普通のことだろう。何がどうなっているとも思わないで、ただ空を見ているだけで二十年過ぎても、何の不自然なこともない。むしろ、空を見て、肉体的にそれを感じるわけでもないのに、オゾン層のこととか、大気圏とか紫外線とか光の屈折のことを思い浮かべることの方が不自然だろう。実際、そんなふうに知識を通して世界を見る度合いが低めな生き方をしても、賢いひとたちに自分たちとまともに会話できるくらいに賢いと思ってもらえないだけで、別に他に何も困ることはなかった。
 賢いひとたちの子供の頃のことを振り返っているような内容の文章とか記事を読んでいると、子供のときに興味があったこととか、子供のときにどういうことを考えたり不安になっていたのかということがよく話されていて、誰の話でも自分がそんなことを思ったことがないことしか出てこなくて、やっぱり本を読む子供というのは違うものだなといつも面白く思っていた。世界戦争がどうこうとか、自分だけが生き残ったらどうしようとか、本当は自分しか生きていないんじゃないかとか、いかにも文物から受け取った感じのするイメージをかぶせて世界を見ていたんだなと思って、それに比べると、俺はいつも目の前の光景を漫然と見えている通りのものに思いながら、頭の中にたいして何も思っていないままで過ごしてきたなと思っていた。
 俺は頭の中に自分用の世界をあまりまともに構築していなかったのだと思う。世界はどういうものだというイメージをあまり持っていなかったというか、むしろ、世界というイメージすら存在しなかったのだろう。自分の体感だけが存在して、それとは別の視座をイメージすることがほとんどなかったんじゃないかと思う。
 何を考えなくても、世界は目の前に実在していて、見ていれば世界の感触は伝わってくる。その感触に何を思うのかは、そのひとの世界観や持っている知識やイメージによって変わるとはいえ、自分の体験と、そばにいるひとたちとの出来事や、そばにいるひとたちと共有されていく世界観を漫然と受け入れて、あとはその場その場のことを感じているだけでも楽しくできるし、充実した時間も過ごせる。別にそれだけでいいだろうと思っていたんだろうなと思う。
 単純に、ひとが何かを話してくれたとして、それに対して知っていることをもとに考えたことをアドバイスしてあげられなくても、相手が話してくれたことに何かを感じて、それにどう気持ちを動かされたのかが相手に伝わるように反応してあげられれば、その方が相手は心地よかったりするんだ。知識がないと何もまともに考えられれないけれど、考える前に、ちゃんと感じてあげて、何か思ってあげて、気持ちに気持ちで反応してもらえたと相手に思ってもらえることの方が大事で、君は俺の子供なんだし、まずはそれがしっかりできるひとになっていければいいんだと思う。

 もちろん、俺は優秀な人間として生きてこれたわけでもないし、心残りがないくらい自分のやりたいことができたわけでもないし、君が俺のようになれるのがいいなんて思ってはいないんだよ。何でも自分なりなだけでそれなりにやっていけるひとになっていけてよかったと思うのは本当だけれど、知識や教養に距離を感じたままの人生になってしまったことについて、それがいいことだったと思っているわけでもないんだ。
 俺だって、何をするにも、並行してもっとちゃんと調べながらやっていけたなら、もっと自分のいろんなことを進歩させられたのだろう。俺は何をするにも、あまり調べたり、ひとに聞いたりしないで、なんとなく思い浮かんだことをやってばかりいた。土台はそれでよかったんだろう。何をするにも、頭でっかちにうまくやろうとせずに、自分なりに適当にやってある程度できるようになっていけたのはよかった。そのうえで、それをやることでもっと深みを楽しめるように、他のひとたちのやり方を知りたいという好奇心があればもっとよかったのだろう。君にはもうちょっと好奇心が自分の背中を押してくれる人生を送ってほしいなと思う。
 俺は何をやるにしても、ひとがやったよくできたものをうまく参考にしてやるというのができなくて、自分の手癖でなんとなくやるやり方でしか何もできなかった。型を身に付けるということに消極的だったというか、できるひとたちはみんなそうしているというようなことを自分もちゃんとやれている状態になっておこうとすることができなかった。
 俺が専門知識が必要な方向性の働き方は向いていないと思ってやらなかったのも、そういう問題だった。手癖とか、思考の癖とか、そういう感じでしか頭が働かないから、中学高校くらいでも、公式と公式の使い方を覚えて、公式の使い方通りに解かないと解けない数学とか物理のような教科は、ずっとつまらないと思い続けていたし、だからいい加減にしか勉強しなくて、覚えたつもりで公式すら覚えられてなくて、定期テストでも何度も落第点を取ったし、〇点だったことも何度もあった。IT系の仕事を始めても、プログラムの基本的な仕組みはだんだんとなんとなくわかってきたし、サラリーマン的に決まったやりかたでやっていれば仕事としてはこなせていたけれど、他人の作った複雑なプログラムを利用してプログラムを組んでいかなくてはいけない案件もやるようになってからは、これは自分がプロフェッショナルとしてやっていける仕事ではないなと感じてきた。
 それをやるのなら踏まえておくべき基本の型みたいなものを習得するのを面倒がってばかりで、なんとなくでしか何もできないということが、俺のやることを手癖でやれる範囲のしょぼい範囲に留めてしまって、それで俺はあまり優秀な何かになりようがなかったところもあるんだ。
 何かを考えるにしてもそうだったなと思う。洗練みたいなものに向かっていかない方向性でしか俺は頭を使えていなかったんだなと思う。俺は本をあまり読まなくて、ひとにもあまり質問しなかったし、自分でぼんやり考えて満足していることが多かったから、自分はすごく考えが幼稚だなと、中学生になる前から思っていたし、大学でも、社会人になってからも、ずっとそう思っていた。本を読んだり、先輩的なひとと喋ったりして、教えられたり、自分もそんなふうに喋りたいと憧れたりしたことを取り入れて、それを視座として、それを通してものを考えたりするようになっている度合いが低かったというのはあるのだろうと思う。実際、生身の人間で、考え方とかものの感じ方とか喋り方とかで、大きく影響を受けたひとというのは一人も思い浮かばない。というか、さほど大きくない影響であっても、一緒に時間を過ごしていた誰かに影響を受けたんだろうかという気がする。
 俺は自分のそういうところを自分にとって自然だったと思うだけで、それがよかったと思っているわけではないんだ。知識の取り入れ方の問題として、セックスする前からポルノに毒されているみたいにして、自分がどう感じたかではなく、それについて知っていることをベースにして、それについて何かを思ったり考えたりするのだと空虚だと思し、賢そうなことをしたがるひとというのはそういう状態になってしまいがちだから、君はそうならないようにということをずっと書いてきたわけで、まともに賢いひとたちというのはそれとは別にいるんだ。
 まともに賢いひとたちはたくさんの知識を取り入れたうえでいろんなことを考えているけれど、それは手持ちの知識を並べて何かを組み立てているというより、そもそも世界についていろんなことを知りたくて、自分がなんとなく思ったことを本当にそうなんじゃないかと確かめたくてそうしているのだろう。もしくは、もっと思う存分考えられるようになるために、考えを進めていく足場のようなものとして、なるべく高性能な足場となるような知識や観点を使っていけるように、知識を取り込み続けているのだろう。そもそも、自分の中で積み重ねられていく世界への理解みたいなものを楽しんでいて、何かの行動とか、知っておくと得になりそうだからと知識を得ているわけではないのだ。自分がもっと物事を深くとらえたり、柔軟にとらえられるようになっているという、自分の成長自体に喜びがあるわけで、その差はとてつもなく大きいのだと思う。
 俺だって、何かに強く興味を持って長い時間をそれに費やすようなものがあったなら、それについてそれなりの知識を積み重ねられたのかもしれない。そして、そうやって何かしらについてプロフェッショナルな感じに、知識に裏打ちされた取り組みをするようになっていれば、もっと全体的なものの感じ方や考え方も、土台のしっかりした洗練されたものになっていったのかもしれない。
 それは大人になっていく過程で俺が頑張らなかったからなんだよ。興味を持ったことや、やりたいことがあったなら、その業界と界隈のあれこれに敬意を持って、文化的な蓄積に触れていって、そのうえで何かを考えられるように訓練していけばよかったのだろうけれど、それ以前のところで、俺にはそこまで興味を持ったものがなかった。だったら、多少は興味が持てそうなものにしっかり取り組んで、そのうちにしっかりした興味を持てるようになっていけるようにと動くべきだったのだろうなと思う。それなのに、俺はただ何にもさほど興味が持てないなとぼんやりしながら、明らかにこの先もしっかりとした興味を持てることはないと確信している仕事をやり続けてしまったのだ。
 どうしてこんなにも好奇心が希薄だったんだろうなとは思う。俺は他人の姿を漫然と見ていて退屈しないし、人間についてのあれこれについて知ったり考えたりすることをいつも楽しんでいられたし、食べたり見たりしていても、何かしら思って、それについての説明を聞いてもなるほどなと楽しんでいられた。けれど、俺は知れば知るほど楽しいとか、知るほどにもっと知りたくなるという感じでもなく、そのつど何か思ったり知ったりしたことで満足して、そこで何かしら疑問に思えることが残っていても、それについても知りたいと好奇心のようなものが持続することはなかった。
 目の前のものに興味は持てるけれど、知りたいという気持ちはそれほどないということなのだろう。君のお母さんとあまりにも話が通じなくて、何だったんだろうなといろいろ考えていて、発達障害とか、発達障害と混同されている障害なんかについての情報にぶつかったときに、そういうことだったのかもしれないなと思って、それはけっこう面白くて、インターネットであれこれ検索したり、何冊か本を読んだりもした。それくらいひとつのテーマに興味を持つのは俺にとってはかなり珍しいことだった。とはいえ、それでも当事者とかその家族向けみたいなライトな内容のものが中心で、学術的なところが中心な本だと、そんなに分厚くないものを二冊くらいしか読まなかったし、興味を持ったとはいえ、その程度のものだった。
 俺の中に発生する興味とか好奇心というのは、目の前のものに自分の心がどう反応するか確かめたいというだけのものなのだろう。だから、わからないなりになんとなくイメージが浮かぶくらいになったら、それで満足してしまうのだ。自分の頭の中にそのジャンルについての知識を積み重ねていくことに快感があったりすれば、また違ったのかもしれない。けれど、俺の脳には、そういうことはそこまで気持ちよくなかったのだ。
 音楽とか食べ物なんかには、ずっと興味を持ち続けていたような気がするけれど、そのわりには、知らないことだらけだったりする。好きな期間が長いわりには、好きな系統でも行ったことのない店や、聴いたことのないバンドや、ライブに行ったことのないバンドが多かった。たまたま目に止まった記事とか、面白そうだった本を読むだけで、そこで知ったことから何かをさらに知りたくなったりすることもなく、そのとき楽しめるものが手に入ればいいというだけで楽しんでいたのだし、そうなったのは当然なんだろうなとは思う。
 けれど、むしろ音楽雑誌やインターネット上のディスクレビュー記事をちょくちょくと読んでいたことでそうなったというのもあったのだろう。自分よりももっと作品を楽しんでいるひとの文章を読むのは楽しかったけれど、同時に、自分はそういうことを楽しもうとして聴いてはいないということに自覚的になってしまったというのもあったのだと思う。自分の現状の楽しみ方の先に、そういうひとたちのような作品への向き合い方があるようにも思えなかったのだ。だから、音楽とか自分の興味のあるジャンルでもっと詳しいひとになりたいという気持ちは大学生になってからむしろ下がっていったし、俺にはこれくらいでちょうどよかったんだとも思うようにもなっていった。それに触れているときにだけ、それに心を委ねていい気分にさせてもらって、何か思い浮かんだら、詳しくないことによって、自分が何も知らないのをいいことにあれこれ自分に思い切り引き寄せながら好き勝手なことを考えて、考えた気になったらそれで満足してということで、その場その場で楽しくやってきた。ちゃんとそのジャンルを文化として知っていくと、ちゃんと考えてきたひとたちの考えをたくさん知っていったうえで考えることになるから、ちゃんとしたことを踏まえてまともに考えることしかできなくなってしまうものなのだろう。たまたま出会ったものの中で、たまたま自分に引っかかったものを自分勝手に食い散らかしているのが俺にはちょうどよかったのだと思う。
 二十歳くらいから、俺はそういうつもりで生きてきたんだ。だから、俺は賢いひとの人生を送れなくて残念な気持ちはこれっぽっちもないんだよ。俺は子供の頃から徹底的にそんな感じだった。勉強する気がなくて、何もまともに知ろうとしないまま、自分の好き勝手なことを妄想しているだけで満足している子供だったし、そういう若者だった。それが俺の場合、子供だったからじゃなくて、生まれつきそういう人間だったからで、そのうえで、俺は無理してちゃんとやろうとする習慣を身に付けなかったというだけなんだ。そして、俺にとってはそれは自然なことで、生き方を失敗したなんて気持ちは全くなかったりするんだ。




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