見出し画像

【連載小説】息子君へ 164 (34 君はお母さんから自分らしさを守らなければいけない-4)

 俺が親から受け継いでそのままにしていられたものがあるように、君には親から押し付けられたけれど断ち切らないといけないものがある。それが素直さを守らないといけないということだし、君の自分らしさを君が自分で守らなくてはいけないということなんだ。
 そのために君はどうすればいいんだろうと思ったときに、君が君のお母さんのことを、俺が母親にそう思っていたみたいに、ただ自分の母親としか思っていないのはまずいだろうと思ったんだ。俺が俺の母親に対してそう思うのはまだいいにしても、君の場合はそういうわけにはいかない。だから、君にとっての自分の母親がどういう人間であるのかという認識が、ちっとも君のお母さんがどういうひとなのかをとらえられていないことがわかるように、俺にとって君のお母さんがどういうひとだったのかということをこうやって延々と書いてきたんだ。
 君の中のお母さんと俺の中の君お母さんは、全く別人なくらい違っているのだろう。君の方が俺の何百倍もお母さんと一緒に時間を過ごしてはいるのだろうし、俺なんかに教えてもらわなくても、君の方が自分のお母さんのことをよく知っているはずではあるんだ。けれど、君は君のお母さんのことを母親としてしか見ていなかったんだろうし、それはお母さんのことをひとりの人間としては見てこなかったということでもあるんだ。
 きっと君は、この手紙のようなものを読み始めるまで、お母さんのことをそんなに変わったところがあるわけではないお母さんだと思ってきたのだろう。君のお父さんも君のお母さんを変わったひととしては扱っていなかっただろうし、君のお母さんが近所の他の大人や、君の友達のお母さんと喋ったりしているところを見ていても、誰もが君のお母さんに何かびっくりしたりするわけでもなく、当たり前のように接しているようにしか見えなかったのだろう。けれど、それはその他大勢の働いているママさんとして、その他大勢のそのへんのおじさんおばさんと関わっているだけだから、何も思われないというだけなんだ。
 仕方のないことではあるんだ。君は君のお母さんの職場での姿を見ていないし、職場内で君のお母さんについての陰口も聞いていないし、何より、君のお母さんとセックスもしていない。だから当然、君は君のお母さんの実際のところも、本当のところもたいして知らなくて、母親としての行動パターンを知っている他は、どんなふうにストレスとその他の感情をサイクルしているひとなのかというのを多少横目にしていたというくらいでしかない。家庭というひとの目がない密室の中で、こんなものでいいだろうと気軽にだらけてさっさと自己完結的な振る舞いに流れてしまうお母さんを延々と見ていただけだともいえるんだ。
 けれど、もしかすると君のお母さんは、君が生まれてから実際にあまり変わったところのない、冗談を言いたがるたまに空気が読めていないだけのどこにでもいそうなお母さんになったのかもしれないとも思う。子供ができて、子供の母親という属性を振り回しながら他人と接するようになって、振る舞いや言動が子育て中のお母さんらしいパターンの範囲内に収まりがちになったことで、俺や六本木の会社の同僚のひとたちが、どうしてそうなるんだろうとぎょっとしたりしていたような突飛な物言いは激減したのかもしれない。
 母親になって、いつでも君のことを考えていられるようになったし、毎日のように君に何かいいことをやってあげられるようになったのだ。君がお腹にやってくるまでは、自分の頭の中で自分は何をしたら楽しいだろうかと考えすぎて迷走しがちだったけれど、君が喜んでくれそうなことはすぐに思いつくし、子供はみんな子供が喜ぶようなことを喜んでくれるものだから、空回りしてしまうことも減ったのだろう。
 もちろん、君のお母さんは君にもサプライズみたいなことをしかけまくってしまうのかもしれないし、大きくなってきた君にだんだんといらつかれるようになっていったりするのかもしれない。けれど、君にとっては、その程度のこととしてしか君のお母さんの空回りを感じることはなかったのかもしれない。
 けれど、別にサプライズをされなくても、普段から君はちょくちょくサプライズされたみたいな気分になることがあったのだろうと思う。君のお母さんは、いいお母さんをやってあげようという気持ちで君を育てたのだろうけれど、それはつまり、いかにもいいお母さんらしいことをやってあげながら、いいお母さんだと認めてくれているようなリアクションを相手がしてくれるように誘導し続けてきたということだろう。もちろん、それは君に喜んでもらいたくてやっていることではあるけれど、それでも、どんなことをしてあげるのがいいお母さんだというイメージが先にあって、それを君にやってあげようとするのだ。それをやれば君は喜ぶはずだと思っているから、むしろ君の気持ちは全く気にしていないくらいで、いいお母さんとして何をやってあげようかということを自分が楽しむことの方がモチベーションの中心にある感じで、君は世話を焼かれ続けていたのだろうし、そうしたときには、君はちょくちょくと、そんなこと全く求めていないのにと、びっくりしてしまうことがあったのだろうとしか想像できないんだ。
 みんないいお母さんをやってあげたいものだし、それは誰だって似たようなものなんじゃないかと思うんだろうか。けれど、いいお母さんをやるというよりも、自分が子供を育てるのならこうなるというような育て方をしようとするひとたちもいるのだと思う。子供を子供扱いせずにひとりの人間として扱って、自分も親である以上にひとりの人間であることを子供に受け入れさせたうえで家族をやっているひとたちというのもいるのだろう。
 それがいいということではないんだよ。親が親らしい態度を取ってくれない場合は、子供の成長によくない影響が出たりすることもあるらしい。自分を無条件に守ってくれて、無条件に大事にしてくれる存在がいて、そうやって世界の中に自分の安心できる場所があって、存分に甘えさせてもらうことで、人間は愛することや愛されることを学んでいくものなのだろう。
 俺の母親は、そういう意味では、いい母親をやろうとしているというよりは、自分がしっくりくるやり方で俺を育ててくれたのだろう。いかにもお母さんらしい顔や言い方をしたりせずに、いつもの自分とそこまで大差のない態度で俺に接していた気がする。覚えてはいないけれど、弟に対してもべたべたしたり、猫なで声をかけたりしていなかったと思うし、素っ気なくはなかったけれど、平熱感の強い態度で子供に接していたのだろう。とはいえ、俺は母親に壁を感じたりはしていなくて、俺にとって母親はちゃんと母親以外の何者でもない存在だった。母親らしいことをしてくれなかったわけではなく、子供の自発性を大事にしたり、親の楽しみのために子供を利用するようなことをしないとか、自分なりに子供にとってどうしてあげた方がいいと思ういくつかのことを気を付けながら、あとは普通に母親をやってくれていたのだろう。きっと、自分が楽しむために子供と一緒に何かをしたいという感覚がなかったんだろうなと思う。子供が楽しそうにしているのを見られれば楽しいという以外に、子育てで楽しもうというモチベーションがなかったのだろう。
 そういう子育てを楽しむことについてのモチベーションのあり方の違いはどういうところから来ているのだろう。けれど、君のお母さんは、そもそもいつでも世の中のイケているひとたちや楽しそうにしているひとたちのやっていることを自分もやれるならやりたいと思っているひとなのだろう。俺の母親は、みんながやっていることの大半は自分には似合わないから、自分に合った楽しみ方ができればいいと思ってきたひとではあったのだろうし、その違いは大きかったのかもしれない。
 俺の母親は、自分がかわいらしさのかけらもない母親に育てられたし、出来がよくなくて姉のように認めてもらえなかったけれど、ひどいことをされたわけでもなく、大事にはされて、短大にも行かせてもらって、感謝もしていたし、母親として尊敬もしていたのだと思う。だから、自分もかわいいお母さんになんてなろうとせずに、その代わりにちゃんとしたお母さんとして接してあげようというようなつもりで母親になったのかもしれない。
 俺の母親は仕事を辞めるつもりがなかったし、その祖母だって、四人の子供を育てながら仕事をしていた。忙しくしながらも子供を大事にして、けれど、子供をかわいがることで自分がいい気持ちになるようなかわいがり方はしないひとだったのだろう。だから、俺が生まれてからしばらく祖母の家で子供の世話を手伝ってもらいながら生活したとき、祖母が俺をにこにことかわいがってうれしそうに連れ回しているのを見てびっくりしていたのだろうけれど、そういう祖母の孫をあやす楽しそうな様子に心を柔らかくしてもらいながら、俺の母親は、厳しくしなくてもいいし、優秀じゃないからと扱いを変えたりということは親を見習わないようにしつつ、それ以外は、自分が育ててもらったみたいにしてあげればいいんだと思っていたのだろう。
 きっと、俺の母親というのは、俺と同じように、別に楽しいことをしていなくても、普通にひとと一緒に何かをしたり、何でもないような話をしていれば、それでそれなりにずっと楽しくやれるひとだったのだろう。だから、俺と何をしたがることもなく、俺で何をしたがることもなく、ただそばにいて様子を見守って、ちょくちょく俺や弟が自分のところにやってくるだけで充分に子育てに満足していられたのだろう。平日は仕事で疲れているし、週末や休みに旦那が子供を遊ばせてくれるのに付き合っているだけで、子供が楽しそうにしている顔もたくさんに見られていたし、何の不満もなかったくらいなんだろうなと思う。
 君のお母さんだって仕事をしながら君を育てているし、体力的には大変な毎日なんだろう。とはいえ、君のお母さんの場合は、だからこそ、君にいいことをしてあげて、君に楽しそうにしてもらうことで、いい気持ちになりたいと思うのだろう。そして、そう思ったときに、子供をペットとか着せ替え人形のように扱うのはよくないとは思っているのだろうから、ちゃんといいお母さんっぽいことをしようとはするのだろう。けれど、いいお母さんがやってあげることならいいんだと思って、そういうことをいろいろ探してきてたくさんやってあげたがるのだろうし、君にかまいすぎて、君をかわいがりすぎることになるのだとは思う。
 君のお母さんが悪いというわけではなく、子供が自分のやってあげることをいつもしっかりと喜んでくれる場合は、君のお母さんのように子供をかわいがりすぎてしまうようになるひとの方が多かったりするのだろうし、それは単に自然な母親の愛情の強まり方のメカニズムというだけで、そういうもので母子の情緒的結びつきを強めていけるように人間はできているのだろう。
 みんな楽しいことがしたいし、自分のやってあげたことで喜んでくれるひとがいるのなら、そのひとを喜ばせることが気持ちよすぎて、いろんなことで喜ばせようとしてばかりになるものなのだろう。そうなってくると、いかにもいいお母さんっぽいことをやってあげて、子供を子供でしかない存在として扱って、自分も母親でしかない存在かのように振る舞う方が、たくさん楽しくなるには効率的なのだ。
 君のお母さんはそうでもないだろうけれど、そもそも子供と時間を過ごすことの心地よさとして、普段の自分と子供に対しての自分がはっきりと切り替わっているのが安心で快適だというひとも多いのだろう。多くのひとは、社会の中では軽視されがちで、所属している集団でも、いつものノリとして軽く見られているのを受け入れた態度でひとと話しているのだと思う。けれど、家庭の中でなら、自分は常に主要人物でいられるのだ。
 多くのひとにとっては、それこそが家族を持つ意義の中心だったりもするのだろう。現実の自分というか、社会の中での自分とか、自分が属している集団の中での自分というものは、自分をうんざりさせるものだったりする。けれど、奥さんとしてとか、母としての関係は、大半を家庭という密閉された場所で過ごす一対一の関係だから、たくさんひとがいる中で自分がどの程度の存在なのかととは別に、その一対一の間だけで強固な関係性を作っていける。外では雑魚キャラだったり、見た目のよくないひととか、一緒にいてもつまらないひとだとか、仕事のできないのろま扱いされているお母さんも、家では、自分が普通のお母さんであるかのように振る舞うことができるし、頑張ればいいお母さんとして子供をたくさん喜ばせてあげることができる。そうやって自分をいいものに思えるようにして、自尊心を維持しているひとがたくさんいるのだろう。
 ファストフード店なんかにいると、多くのひとにブスだと思われるような見た目で、服装なんかも人並みよりはだいぶんダサくて、喋っているのが聞こえてきていても、びっくりするくらいつまらない話をしているおばさんでも、一緒にいる子供が楽しそうにしているようなひとだと、それなりに幸せそうなリラックスした感じを発していたりして、そういう光景を見ると、このひとは子供がいなかったとしたら、全然違う顔で生きていたんだろうなと思ったりする。
 子供からすると親は世界一大好きなひとだから、親は自分のことを世界一大好きだと思ってくれている相手に向ける顔を子供に向けることができる。ファストフード店の幸せそうなおばさんにしても、子供を除けば、自分のことを世界で一番大好きだと思ってくれているひとなんていないし、自分のことを好きだと思ってくれていて、一緒にいるだけで楽しそうにしてくれる友達すらいないかもしれないのだ。そして、そういうおばさんを見て、あんなださくてとろそうなひとでも子供がいたら幸せそうにしているんだというのを見て、やっぱり自分も子供がほしいと思うひとがとてつもなくたくさんいるんだろうなと思う。
 世の中には納得いっていない役回りでまわりから認知されていたり、他人から不本意な扱いを受けていて、本当にしたい顔ではない顔をして生きているひとがたくさんいるのだろう。そして、そういうひとたちも、家の中では、自分のことを大好きな相手に向けて、自分のしたい顔をできていたりするし、逆に、家族や恋人がいないひとたちというのは、社会の中で強制される顔をして過ごす以外には、ひとりになって何かをしながら無表情に過ごすしかないのだろう。したくない顔と無表情で時間が流れていくのは寂しいことだろうし、だからひとは子供がほしくなったり、恋人がほしくなったり、ペットを飼いたくなったり、画面に向かって全力でにたにたするためにアイドルを好きになろうとしたりするのだろう。
 子供が親のことを親としか思えなくて、親が現実的にどんな程度のどんなひとなのかということを感じ取るのが難しいのは、親が家族に対してだけ別の自分で接しているからという場合が多いのだろう。子供のために何でもやってあげようと思ってくれているかわいがってくれる親ほど、より濃密に一緒に時間を過ごしているようでいて、親が家の外でどんな人間なのかはちっとも見えてこなかったりしているのだと思う。逆に、自分の生活の中で子供の世話よりも優先度の高いものがあって、子供の世話をしないといけないことを煩わしそうにしているひとの方が、子供からすれば親が社会の中でどういう人間なのか透けて見えたりするのだろう。
 もちろん、子供の側だって、小学生くらいになってくれば、家の外での出来事を何でも親に話すわけではなくなるし、家の外と中でしている顔が違ってくるようになるのだろう。人間は自分が所属している場所ごとに、その場で認知されている自分を受け入れて、その場でのいつもの自分として振る舞うものなのだろう。
 けれど、俺は小学生の頃も、中学高校生の頃も、実家を出てからも、親に対しての顔と他の場所での顔に大差がなかったように思う。それは俺がどこにいても不本意なキャラクターや役回りを押し付けられることもなく、いつでも自分のしたい顔をしていたからというのが大きいのだろう。けれど、その前に、親が何かしらのノリとかパターンみたいなもので語りかけてこなかったことで、家の中でも家のノリに合わせたパターンで過ごしている感覚にはなっていなくて、基本がそうだったから、家の外でも、家とは切り替えて別のノリで振る舞おうとしなくて、それが学生時代も、大人になってからもずっと続いたから、家族に対してはだんだんと接する態度は変わっていったけれど、だからといって、他の場所にいるときとは違う顔で接しているようになったりすることはないままになったということだったのだろう。
 俺はそんなにまでも、何も押し付けられずに、一方的なこともされずに育ったのだ。俺には全く反抗期がなかったけれど、それは親がいつでもその時点の俺に合わせた接し方をしてくれていたから、自分の扱われ方が窮屈だったり不快だったりすることがなかったからというのもあったのだろう。
 君のお母さんがそこまで何も押し付けないように気を付けた接し方をするなんてことはありえないのだろう。子供からいかにも母親が大好きな子供っぽく反応してもらいたいのだろうし、いかにも子供が大好きな母親っぽく子供に接しようとするのだろう。みんなが楽しんでいる子育て生活を自分も楽しみたいというモチベーションで、せっせと今どきの育て方をして、いいお母さんをやってあげようとするのだろうから、どうしたってそうなるのだろう。
 君にとっては、普通にお母さんからたくさんかわいがってもらいながら育ててもらったということになるのだろうけれど、君にとってはそれが普通だとしても、実際のところは、君は生まれてからずっと、君のお母さんのいいお母さんノリにひたすら付き合わされていたということになるんだ。
 君がどういう気分だからというのを見守りながら声をかけてくれるわけでもなく、できるかぎり何も誘導しないように、君が何をしたいと思うのを待ってあげようとするわけでもなく、君のお母さんはどんどんしてあげたら喜んでくれそうなことを君にしてきたのだろう。君のお母さんは、君のことを見てくれていて、君を喜ばせたいとは思っていても、自分が何をしたいと思いついたところを起点にしか君に何かをしてくれない。君は生まれてからずっと、そんなふうに自分のペースでかわいがろうとするひとの行動パターンに付き合わされることになってしまったのだし、君の生きていることの基本が、いいリアクションを引き出せるようにパターンにうまく合わせて行動するということになってしまっているのだ。
 君の場合、感情の行き来としては、生まれてからずっとお母さんと過ごしてきたというより、君のお母さんのパターンと過ごしてきたという方が、より実際に近かったりはするんだ。君がお母さんのことを知らないというのはそういう意味で、そして、君が君のお母さんのことを知らないように、君自身も、君のお母さんのいい母親ノリに付き合い続けたことで、君のお母さんの行動パターンに合わせたときに自分がどんなふうに行動するのかは知っていても、自分の気持ちに寄り添ってくれるひとの前で気持ちのままに振る舞ったときに、自分がどんなことをしようとするのか、自分でよくわかっていないひとになってしまっていたのだと思う。
 ここまで読んできていれば、それが自分らしさを奪われているということなのだというのがわかるだろう。だからといって、これを読んでいる君は、もうそれなりに自分らしさを自分に感じながら生活している状態なのだと思う。俺はその自分らしさを偽物の自分らしさだと言いたいわけではないんだ。ただ、君が最初に人間に慣れていくときに、どういう人間に慣れることで人間に慣れていったのかというのがあって、それは俺が自分の母親を通して人間に慣れたのとは全く別の影響を君に残しているはずだから、それがどういうものなのか、自分で考えてみた方がいいということなんだ。
 この手紙のようなものを読んで、君のお母さんの心の動き方のようなものが、どういうものなのかぼんやりとはイメージできるようになったんじゃないかと思う。
 君は君のお母さんと心の動き方が違いすぎるから、いろんなことを振り返って、自分の母親を普通だと思って世の中を見てしまっていたところがあったなら、それは改めるべきだし、自分の中で母親の行動パターンに適応することで身に付けてしまった行動パターンがあるように思ったら、その癖とか習慣が君自身を幸せにするようなものなのか、ちょっと立ち止まって考えてみるといいのだろう。
 君は自分のお母さんとの日々から、人間はあまりにも根深いところからばらばらなんだということを実感することができる。これを読んだ人生の早い段階からそう思った状態で世界を知っていくことができる。それはいいことでもあるんだろう。君は自分がお母さんと接してきてたっぷりと体感した、得体のしれない気持ちの伝わらなさみたいなものが、だんだん世界の中で濃度を上げていっているんだなと思いながら、世の中のいろんな変化を眺めていればいい。そして、そういう世の中で、君が自分の感情を自分で生きながら、自分の感じ方を楽しみながら生きているひとたちから自分を面白いところのあるやつだと思ってもらえるようになっていくために、みんながそうしているからといって、どういうものには馴染んでしまわない方がいいということに気が付いていってくれればと思う。




次回

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?