不十分な世界の私―哲学断章―〔4〕

 歴史なるものについて、一般にこういうことが考えられてしまうことはないだろうか?
 たとえば日本史の中では、大化の改新も関ヶ原の戦いも明治維新も、「日本史という一つの場所」において、あたかも「同一の地平に同時に存在するものであるかのように見えてしまう」のではないだろうか?「日本人」は、自分たちの歴史において起こったとされるそれらの出来事を、「日本史の一つの年表の上で、同時に見ている」のではないのだろうか?
 あるいは、たとえば「哲学の歴史」というような本を読むとして、そこに書かれている歴代の哲学者たちについて、アリストテレスやデカルト、カントやヘーゲル、サルトルやドゥルーズ等々の、そうそうたる哲学者たちの思想を、私たちはあたかも「同時に存在している思想として読んでいる」ことになるのではないのか?実際それらの「思想」は、書店や図書館の本棚に「横一列に、同時に並べられている」ではないか?私たちはそれを、「同時に読むことができる」ではないか?
 しかしもちろん彼ら歴代の哲学者たちは、「それぞれの時代において、それぞれ自分自身の直面している現実を前にして考え、それをそれぞれの現実の中において書き記してきた」のであって、けっして「同時に一斉に考え、同時に一斉に書き記した」わけではない。また、たとえばアリストテレスは、カントを読んだこともないだろうし、ヘーゲルはドゥルーズの名前すら知らないだろう。要するに彼らが「同時に存在した事実はないのは歴史的に見て明らか」なことなのだが、しかし私たちは、「それらの存在を同時に知った上で、それらを改めて歴史的なそれぞれの場所に、歴史的に位置づけ、並べ替えている」のではないのだろうか?「同時に見ているものを、頭の中でそれらの登場順に改めて入れ替えている」だけの話ではないのか?それらが「どれも同じように、一つの歴史の中に存在している」ものとして、その歴史を読み変えているのではないのだろうか?あたかもそれらが「歴史という同一の現実的な条件」の中で生まれ出たものであるかのように、それらの成立の条件は、あたかも「平等であった」かのように考えているのではないのだろうか?そして、たとえばそのような並べ替え・読み変えの作業においては、やろうと思えば「デカルト抜きの哲学史を作り上げる」ことだってできる。実際そのように「歴史から消された者」は、どの分野においても数多存在するではないか。
 また、さらに別の見方をすると、アリストテレスはカントを読んだことがないということは「事実」だろう。しかしそのことが、アリストテレスの哲学の「不十分さを示す」ことになるだろうか?それによってアリストテレスはカントに対して「劣っている」ことになるのだろうか?「現代」の私たちが、アリストテレスとカントを「同時に読む」として、それらはただ単に「それぞれ個別の思想として、対等に読むことができる」だろう。しかしもしそれらの思想が「対等に存在する」ということにおいて、そのどちらかがどちらかに対して、何らかの「不十分さ」が見出されるとすれば、それらを「歴史的に読む」ことによって、はじめてそれが可能になるのではないだろうか?「歴史的に読む」ということはつまり、それらをまさしく「登場順に読み直す」ということであって、そこではじめて、アリストテレスはカントに対して「足らないもの」となるわけなのではないか?
 一般に哲学とは、たいがい先行者の足らなさ・不十分さを批判することによって発展してきたと考えられている。そこで見方を変えると、先行者は後続者に「一方的に批判されるばかり」で、反論する機会を与えられることが絶対にないのだ、と言える。逆に言えば、たとえばカントはアリストテレスに「永遠に勝ちっぱなしの状態で居続けることができる」のである。それが可能なのは、まさしくそのような「登場順という、自分では埋められない差異」を見出すような歴史的な「視点」によってということになる。
 そしてたとえば『哲学』がそのように「発展してきた」ように、『人間』もまたそのように「歴史的に発展してきた」かのように一般的に考えられていることだろう。しかし『人間』とははたして本当に、そのように「発展してきた」と言えるのだろうか?アリストテレスの考える『人間』と、カントの考える『人間』に、一体どれほどの「違い」があると言えるのか?「アリストテレスの見ていた人間」が、「カントの見ていた人間」に対して、どれほど「不十分」であったと言えるのだろうか?
 先行者のことを「時代遅れだ」と言えるほど、はたして「現在」の何が、一体どれほど「発展している」と言えるのだろう?もし、「先行者の不十分さ」を理由にして、現在の発展を証拠づけようとするならば、その者もやがては「時代遅れで不十分なものとされてしまうことになる」ということを、一体「現代」の誰が、否定できるだろうか?

 とはいえ、それでも「歴史は必要だ」と言える。その歴史において一体何が「見られていない」のか「語られていない」のかを知るためには、ぜひとも「見られ語られた歴史」というものが必要である。歴史において見られていないもの、あるいは語られていないことを見つけ出すことは、客観的な事実という概念に閉じ込められている「事実そのもの」を解放することであり、そのような歴史という『概念』なる氷の城に幽閉されている孤独から、事実の『歴史性』を救済することでもあるのだ。
 繰り返すと、歴史は一般に、現に生きている人間の経験的な出来事の集積というように考えられていると言える。しかし、そのような『歴史』と「事実の『歴史性』」は、厳に区別されて然るべきである。
 あるいはこのように区別しよう。『現在』なるものは一般に言われているような歴史を持たない。しかし、そのつどの現在は「一回的・単独的・唯一的な『歴史性』」を持つ、と。ここで言う「現在−事実の『歴史性』」とは、端的にはその現在−事実が、それ以前にはなくそれ以後にはなかったことにはできない、ということだ。と同時にそれは、現にあるあらゆる関係の中で見出されるものなのだ。つまりそれは、意識による見方によって、あったりなかったりするようなものではない。むしろそれは、意識がそれを見ていたり見ていなかったりするだけのことなのだということを、その『事実』を暴露するものなのである。私たちの意識に捉えられている世界や歴史は、その意識が捉えることができていない世界や歴史もありうることを否定できない限りは、常に不十分なものとしてしか認識しえないのだ、ということが言える。しかし私たちは、そのような「不十分さを意識しない」で、世界や歴史を『解釈』しているのではないか。いや、世界や歴史のみならず、私たちの現に生きている「この現実」に対しても、それに対する認識が常に不十分なものであるかもしれないとは「十分に意識しない」で、「これが現実だ、もっと現実を見ろ」などと、もっともらしく言っているだけなのではないのか?

〈つづく〉

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