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日本の哲学とは何かを考える。

今回は、井上円了氏のお話。

東大文学部哲学科たった1人の1年生、通信教育の生みの親、妖怪博士、東洋大学創始者、哲学堂を建てた人。

井上円了(いのうえ えんりょう)

井上円了は、安政5年 (1858年) に、新潟県長岡市で生まれた。彼の幼い頃に、明治維新があった。


円了少年は、はじめに漢学を学んだ。漢学とは、中国伝来の書籍や思想を学ぶもの。

現在の新潟県長岡高校では、洋学を学んだ。洋学とは、オランダ以外の欧米諸国から到来した学術を学ぶもの。英語も学んだ。

※オランダを通じて日本に入ってきた学びは、蘭学と呼ばれていた。内容が全く違うというわけでもなく。蛮学→蘭学→洋学(開国以降)と、呼び方が変わっていったと考えてもよい。


当時の日本で、最もよく使われた教科書の1つに、文部省が英語から翻訳した『巴来 (氏) 万国史』があった。ピーター・パーレー氏の著書で、アメリカやフランスについて書かれている。また、その原書からは、英語が学ばれていたそうだ。

タイトルにまで名前が入っているが。実は、パーレー氏からの依頼で、ナサニエル・ホーソーンという人物とその姉が書いた本。なんだかかわいそうなので、彼の写真を貼っておく。ホーソーン氏、日本人に世界のことを勉強させてくれて、ありがとう。

ナサニエル・ホーソーン
東洋大学がネットに公開している円了のマンガ
ラストにも改めてリンクを貼る。

円了のような想いを抱いた学生は、当時、他にも複数いた。


23才で、選抜されて、東京大学に入学。設立間もない東京大学の文学部哲学科の、たった1人の1年生だった。

円了は、真理は哲学にあると、強く思うようになった。

幕末から明治にかけて。日本は、否応なしに、世界を知ることとなった。急速に浸透していった欧化主義。そんな中、なぜ円了は、哲学こそ重要だと思ったのか。

続きを読んで知ってほしい。


29才で「哲学館」を創立。現在の東洋大学の前身である。現代の文京区湯島にある、麟祥院の施設を借りて。

定員50人で16歳以上の男子が対象だった。余資なく優暇なき者に教育を開放すること、を大切にしたいと思った円了。哲学館に通えない人たちのために、館外員制度も設けた。『哲学館講義録』=テキストを出版。通信教育の起源である。これにより、全国に生徒ができた。

教育機会の開放を願う気持ちから、さらに、全国の地方都市や農村・漁村で公演を行った。27年間で5400回。聴講者はのべ140万人。

余計な一言かもしれないが

現代のYouTuberなど。いわゆる配信者さんたちは、千や万という桁を、なにか非常に誤ってとらえている気がしてならない。インターネットの普及で、千人に聞いてもらう・万回観てもらうということを軽視していないだろうか。偉業なのだ。
 
私は、学年全体の前でスピーチなどしたことはない。中高ともに1学年7クラスあった。おおよそ300人。たとえば300とは、そういう人数だ。


円了の教育理念はこうだ。諸学の基礎は哲学にあり。当たり前とされるものや流行りのもの、先入観や偏見にとらわれず、物事を深く掘り下げることが重要だと。

自分の力で考えること。

千や万や三百という数をどうとらえるか、そのような話を前段に入れたのは、「哲学する」ことの例を表したかったため。


円了に、妖怪博士というあだ名がついた。

このコラボ最高。

日本中に、「こっくりさん」が蔓延していた。円了がその調査と実験をした。そして、これは人の心理作用からくるものだと、結論づけた。

人々に、迷信や思い違いなどからくる恐怖心のことを説明した。

たとえば、幼い子を残して亡くなる親の悔いから、子育て幽霊の話が生まれたのかもしれない。円了も、こういったことに対して、物理的にはあり得ないが心理的には存在し得ると解説。

呪 と 祝 は漢字が似ているだけでなく、表裏一体の感情かもしれない。強い想いがあるからこそ生じ得る、真逆の気持ち。広く見れば、妖怪や幽霊だけの話ではない。

『呪術廻戦』
夏油の絶望を表すシーン

夏油の闇堕ちにフォーカスした、オススメのMADの紹介。

「何処にでもあるようなものが ここにしかないことに気づく」


井上円了著『日本周遊奇談』の第194話

〜大勢の人々が妖怪の話を望む。私はいつもこうのように話す。「天狗幽霊非怪物、清風明月是真怪」〜

補足する。

清風明月:明るい月夜の静かで清らかな様子
真怪:現在の科学では解明できない怪異

天狗や幽霊なんぞに驚いている場合ではない。本当に摩訶不思議なものは、清風明月なのだから。さらに言えば、己こそが真の神秘

このように。そもそも自然や生命はすごく不思議だろうがと、人々に諭したのだ。

狙ったのかはわからないが。妖怪やこっくりさんなど、大衆が関心をもつものを題材にしたことは、耳目を集めた。著書はどれもベスト・セラーに。円了は、人々の思考の近代化に貢献したといえるだろう。


勝海舟は、生涯、そんな円了を支援し続けたという。

勝海舟

そのようなサポートもあり、円了は、30才でアメリカとヨーロッパ各国とエジプト、44才でアメリカとヨーロッパ各国とカナダ、53才でオーストラリアなどを視察することができた。飛行機のない時代だ。大変だっただろう。

西洋哲学の目で、幼い頃から身近にあった仏教を見直したことにより、円了は「東洋の哲学」を感じることができた。また、西洋哲学も仏教も、同じ真理を語っている部分があると気づけた。

東洋の哲学とは、いわば、日本の日本らしさ・日本人の日本人らしさのことだ。

日本人には、むしろピンとこないことかもしれない。他の国からは驚かれるようなことでも、本人たちは当たり前のことだと思っている。多かれ少なかれ、どこも、そんなものだ。


著作の印税で、「四聖堂」(哲学堂とも呼んだ)を建設した。

東京都中野の「哲学堂公園」

哲理門/妖怪門

物質ありきとする世界観=唯物論と、精神ありきとする世界観=唯心論。それらとは別の、普通の道理では説明できない不思議=理外の理。円了は、これを哲学のきっかけとした。門(哲学世界への門)の両脇には、木彫りの天狗と幽霊がいる。

幽霊の方、けっこう怖い。
繰り返される哲の字に、わかったわかったと思う。笑
狸燈

立て看板の解説「人間の心情は狸に類するものがあり、しかも時には、光輝ある霊性を発揮することがあるとして、腹中に灯篭を志仕込んである」

鬼燈

かつては、鬼の頭の上に、灯籠が置かれていた。鬼は人間の邪念・灯籠は人間の良心という表現だそう。私たちがもつ、良心で悪念を押さえたいという想い。

御手洗いには、「尾無毛泉不白」と書いてある。「尾」から毛をとり泉から白をとると、「尿」になると。笑


 全財産を寄付して、財団法人を設立。明治39年 (1906年)、哲学館に新たな校名をつけた。東洋大学。

「東洋」に円了のどんな気持ちがこめられているか。もう、説明は不要だろう。


ちなみに。哲学を愛しつつ妖怪も好奇心の源だとした円了は、寺によらない個人の信仰を認めるようになった。寺院によらない信仰や教団に属さない宗教など、考えられない時代に。

よい社会をつくり上げるには、よその国のことも知らねばならない。新しいものも取り入れねばならない。だが、その影響で日本らしさを忘れてはならない。私たちには独自の哲学がある。

みなぎる行動力で、そんな想いを日本中に伝えていった。彼は、明治の時代に、日本人でありながら国際人だった。

日本の哲学とは一体なんだろうか。
自分で考えて(哲学して)みよう。

講演中に倒れ、61歳で永眠。

以前書いた、南方熊楠についてのお話。彼も特筆すべき日本人だ。よかったらこちらもどうぞ。

貼ったマンガが読めるリンク(無料)。まだ2話しかないかもしれない。

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