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先祖の話 父母と祖父母の時代

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ゆきから祖母はるへの明治の手紙

ゆきから祖母はるへの明治の手紙

ゆきからおはる宛の2月9日付の手紙だが、祖母はるの残した手紙のひとつである。おはる、ゆき、大井の妹、おじいさん、姉上様等が登場し、その関係に悩む。本文の内容は以下のようである。

【本文】
その後ご無沙汰していますが、お変わりはないですか。次に当方は皆無事ですので、安心してください。只今大井の妹から電話があり、おじいさんが先日から例の病気の様子で、床についているが、この頃は悪い様子だと申しています

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明治の請取状

明治の請取状

田中平吉から田中まつに宛てた封筒に入っていたものである。手紙がなく、佐々木家宛の請取状だけが入って残っている。請取状の名前は孝次郎、梅吉とあり、田中平吉が娘まつに託したものなのか、後で封筒に紛れ込んだものなのか分からない。

丸に大の字は、日本橋大伝馬町4丁目にあった大丸のことだろうか。孝次郎と梅吉から佐々木家に出した代金14円5銭の請取書である。品名の黒朱子は光沢のある濃黒色の繊維である。博田(

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松本ことから田中まつへの明治35年5月の手紙

松本ことから田中まつへの明治35年5月の手紙

日本橋田所町の松本ことから佐々木家に奉公している田中まつ(祖母の姉)に出した手紙だが、本文は以下のように完結していない。前略の箇所か2度あり、最後も途中で終わっているので、下書きのようである。明治35年は、祖母が17歳であり、幼なじみの松本ことも同じ年頃だろう。

何故下書きが封に入ったか不明。筆跡から松本ことのものと思われるので、それを前提に考えると、文中に「私の体についていろいろと御心配くださ

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父の軍隊生活

父の軍隊生活

父が軍隊時代の話をするときは、いつも旧陸軍の不条理な世界に対する怒りが込められていた。
東京の近衛師団に配属され、やがて満州海城県に送られた。配属は体格がよかったためか、山砲兵第29連隊第一中隊だった。

父からはこんな話を聞いた。親元から送られた柿を寝台の下に置いていたら、上官の目に止まり、どうして一人で食べてるのかと叱咤され、殴られた。大砲に腰掛けていたら、上官がやってきて、陛下の武器を何と心

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祖母の出産と明治40年の手紙

祖母の出産と明治40年の手紙

祖母笠松はる(晴)は、明治40年4月に長男を出産した。これは、その頃に池田はるから送られた安産を祈る手紙だが、当時の交信は、今と比べると随分とのんびりしていたのか、出した頃にはすでに出産が終わっていた。

手紙を読む前に、当時の祖父母の住所を確認するのが、分かりやすい。

明治37年 祖父近次郎が大井村大仏(おおぼとけ)に養豚業を営む
明治39年 近次郎とはるの結婚
明治40年 祖父母が四谷伝馬町

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明治の手紙 姉からまつへ

明治の手紙 姉からまつへ

祖母田中はると姉妹は、明治30年代に神田区西小川町の佐々木慎思郎家に奉公に上がっていた。この手紙は、長女から、まつ(次女)に宛てたものだが、文面で、かつ(四女)のことに触れている。

内容は、
時候不順ですが、(佐々木家の)奥様の病状は如何ですか。私か母かでお見舞いに伺いましょうか。お知らせ下さい。そのときに、かつさんに先方からの帯と下駄をお目にかけましょうか。これについてもご返事を下さい。

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松本ことから田中はるへの手紙(明治◯年11月9日)

松本ことから田中はるへの手紙(明治◯年11月9日)

神田区西小川町の佐々木家に奉公に上がっている田中はる宛の、日本橋区田所町の幼なじみ松本ことからの手紙である。

先日(夏の宿下りにか)会った頃に田中はるは、病気だったのか、その後の病気の具合を案じている。また、松本ことが日中は裁縫の仕事をして、夜は学校に通っていることが知られる。封筒が松本ことから田中はるへの明治34年1月7日の年賀状のものと同じであるので、その頃の手紙だろうか。

以下、手紙の内

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明治時代の判じ物のような姉からの手紙 佐々木家奉公の事

明治時代の判じ物のような姉からの手紙 佐々木家奉公の事

母の実家に残されていた手紙で、田中家の長女から次女まつに出したものである。複数の手紙から、田中家は、長女、まつ、はる(祖母)、かつの四姉妹だったと推測する。

手紙の内容は、判じ物のようでわかりにくい。岩田さんが祖母たちが奉公している佐々木家に女中の件で電話をしたことが騒ぎの発端である。推測するならこういうことだろう。

昨晩、父(田中平吉)が玉子屋の忠さんからこんな話を聞いてきた。

「橋本さん

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祖母への明治時代の手紙にみる呼称の変化

祖母への明治時代の手紙にみる呼称の変化

【ことから田中お春、田中おかつ宛の手紙】
松本こと子から田中はる子とかつの姉妹に宛てた9月12日の手紙だが、何年のものか分からない。併せて、かつからはる子への手紙を載せた。

文面にある田中お春は、私の祖母で、戸籍はセイであるが、晴を当てて、晴=はると呼ばれていた。晴子と公家風に言ったり、おはるさんと呼ばれたりしていた。セイ→晴→はる→春の変化に明治時代の女性たちの名前の面白さを感じる。

差し出

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祖母への明治時代の残暑見舞い

祖母への明治時代の残暑見舞い

8月17日付の松本こと子から祖母田中はる子に出された残暑見舞いである。立秋を過ぎ、暦の上では、まだ暑い日が続いていて、いわゆる残暑である。二人は日本橋田所町に生まれ育ち、共に書が好きだったようで、手紙のやりとりで、互いの様子を知らせ合っていた。SNSがない時代の少女たちの楽しみにも思える。

祖母からの手紙の返事(多分、暑中見舞い)だが、病の為、不在のことが多く、返事が遅くなり申し訳ないとある。病

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入院中の祖母への明治37年の手紙

入院中の祖母への明治37年の手紙

祖母が入院した。入院先は牛込区早稲田南町27の少林病院、どの辺だろうと明治時代の古地図帳を持ち出してみると、南町25に早稲田小学校があり、その2つ隣にあった。少林病院のあった場所は、今では早稲田小学校の敷地拡張により構内に組み込まれたようである。近くに夏目漱石の漱石山房跡や生家の夏目坂がある。住居表示が当時と現在では変わっていないことが驚異である。

何の病で入院したのかは、確かでない。はる子(晴

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祖母の縁談話―父からの明治36年の手紙

祖母の縁談話―父からの明治36年の手紙

神田区西小川町一丁目三番地の佐々木家に奉公している祖母田中はる子に父田中平吉から来た縁談の手紙である。

昔は町中に世話好きの人が必ずいた。
昨日、仕立屋の婦人から父親に縁談が持ち込まれた。縁談先は、日本橋本石町4丁目(現在は日本橋本町3、4丁目)の新道に昨年引っ越してきた京屋という太物問屋である。元は本石町の目立て屋の隣に店を構えていたが、兄が相場に手を出して出奔、その後に亡くなり、今は古くから

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明治34年の祖母への姉からの手紙―産後の肥立ち

明治34年の祖母への姉からの手紙―産後の肥立ち

出産は今でも女性にとっての大仕事で、ついこの間まで「産後の肥立ち」という言葉が現実的だった。乳幼児の多産多死は、明治初年まではどこの家でも見られた普通の出来事だったようだが、祖母の娘時代の頃は、ようやく乳児死亡率が下がったものの、やはり、出産は大変なことだったことが、明治34年の姉まつからの手紙からも知ることができる。また、姉妹で佐々木家に奉公に上がっていたことが分かる。はるは戸籍で三女であり、田

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祖母の手紙の下書き

祖母の手紙の下書き

祖母の手紙の下書きだが、断片なので、推測しかできない。(1)〜(3)は同じ菖蒲の用紙を使っているので、同じ時に両親や幼なじみの松本こと子に出した手紙の下書きだろう。

(1)では、指折り数えれば5年昔(いつとせむかし)とあるが、ずいぶん昔のことと思えるの意味で、学校を出て、春に奉公に上がった時には山桜の花が咲いていたが、今は葉桜になった頃なので、数日後の便りの下書きらしい。「戸田様」は奉公の仲介者

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