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【hiroshimaに思いを馳せる】戦争を知らない子供たちの子供

どうも、クエッショニングのりゅうです。ナガサキの日、私は祖母や学校や様々で見聞きした戦争体験に思いを馳せています。

最近、学生さんの戦争を知る体験(資料や体験談で学ぶ)を目にすることがあり、戦争も震災も忘れないようにという活動がまた活発になっているように思う。


今回はいつも以上に纏まりがないと思います。

いつもであれば下書きに仕舞い込んでしまう稚拙さですが、今回はそのままアップしてしまおうと決めました。

とても読み辛いことと思いますが、お付き合いいただけたら嬉しいです。


タイトルは、1970年のフォークソングのタイトルから取っています。

『戦争を知らない子供たち』という曲、これは私の親が学生だった頃に流行した曲で、私は幼い頃の『昭和の懐かし歌謡特番』などで耳にしたことのある曲です。

この歌詞のように、青空が好きで花が好きと堂々と言える世の中であり続けて欲しいと思います。

私は青空や花や自然が大好きです。


私の父方の祖母は戦争を語ることがありました。

母方の祖父母は父方よりも少し若くそちらからは聞いたことはなかったけれど、世代的には祖母と同じように兄弟が経験しているのだろうと思う。

仏壇には兵服の写真があったように思う。


私達の世代…30〜40代あたりの世代は、戦争を知らない子供たち、の子供。

多くの体験談や資料を見聞きしてきた世代なんじゃないかなぁと思うのです。

私達はこれからの世代に、何を語れるだろう?そんなことを思います。

だから今回は、私が見聞きしてきたことを書いていきますね。


私の祖母は昭和の一桁の生まれで、詳細は忘れてしまったが沢山の兄弟の末っ子だったと聞く。

そして、両親共に血が繋がっていた兄弟は一番年の近い兄一人だけだったという。

幼い頃、祖母にあちこち連れて行って貰っていた私は、この盆の時期は祖母の兄弟や従兄弟などのお墓参りにも行った。

中身のない、墓石もない、塔婆が刺さっただけの、寂しい墓地だった。

周囲が石を磨き丁寧に手入れされた墓地の一角、剥き出しの小さな敷地の草を毟って、朽ちかけの木の板に、その下に何も眠らない、あったとて遺品の布切れや髪…それも本人のものかわからない、そんな場所に花と線香を供えて手を合わせた。

雑草を抜きただの四角になったむき出しの土に水を流す虚しさ、何も眠らない狭い墓地に手を合わせる不思議な感覚…夏休みの蒸し暑い日に丸1日を費やして、沢山の花束を抱えて点在する祖先血縁の墓たちの最後の花は、いつもその奇怪な手向けで締めくくられた。

私の目の前にある戦争の爪痕は、不可思議で虚しいものだった。

あるいはそれ自体が、平和への願いを込めたごくごく個人的で小規模な慰霊祭であったのかもしれない。


2学期が始まる頃、ポツダム宣言の記念時期は、小学校や中学校の渡り廊下は毎年戦時中の白黒写真が窓の下を黒焦げに染めるのが私の学生時代の通例だった。

遺体の山、布切れを包帯のようにして処置を受ける人、焦げた更地、それらは遠いどこかを写したものでなく、私が今生きるこの地域の写真たち。かつての姿を写したものだった。


敢えて言うが、私は広島や長崎の出身ではない。

この更地の戦火の景色は、日本の・世界のそこかしこで起きたことだ。

先日地元の番組でインタビューを受けていた学生の言葉が忘れられないでいるのです。

その学びをしての感想が、空襲という単語をまるで原子爆弾とイコールのように使い、空襲が広島長崎だけだったように思っていた口ぶりだった。

これは、その無知さは、私達戦争を知らない子供やその子供が、戦争を語っていないからなんじゃないかと思ったんです。

私は戦争を知らないけれど、戦争を経験した人を知っている。

近くのお寺に防空壕があるのを知っている。

通っていた学校が避難所であり病院であり遺体安置所であり、はたまた戦争に行く者達を祝う式典の場だったことを知っている。

食い物がなくて他人の畑の若い実を盗んで食べて叱られてきた祖母は、腐りかけのような完熟したドロドロの柿が好きだった。


私が通っていた小学校は、江戸だか明治だかの寺子屋が発祥の古い歴史を持つ小学校で、だから戦争のときには既に現在の位置に建物があり、当時その校庭には遺体の列が敷き詰めるみたいに並び、校内は病院のような様だったと聞いた。

おかげで怪談話は尽きなかったし、学校の下には遺体が眠ると噂されていたりもした。

真偽は定かではないけれど、写真の記憶の通りであればご遺体たちはトラックに積荷のように山と積まれて火葬場へ次々と運び出されていっただろうと思うので、学校に遺体が眠ってはいないだろうと勝手に思っていた。

先述した祖母の兄弟の件は、祖母の母…私の曽祖母が不幸であったのであって、複雑な家庭環境だったわけではない。

曾祖母は旦那をコロコロと変えたしようの無い女だったのではなく、夫を少なくとも2度、戦争に奪われたのだ。

当時はシングルマザーなんて概念はない筈で、旦那がなくなるとその兄弟や友達が面倒を見ることだったろう。

祖母からは母の記憶しか聞いたことがないから、きっと曾祖母は3人の旦那を全て戦争に奪われたのだろう。

そして、私が手を合わせていた墓地…曾祖母は、自分の兄弟も子供も、ことごとく失った。

私が知る祖母の兄弟は、祖母と同じ血の兄、それと頭が良く体の弱かったという兄、その2人だけ。

9だか11だかの兄弟大家族で何人生存したかわからないけれど、親戚や友人付き合いが好きだった祖母に紹介されたのはたった2人だけだった。

祖母の友人のあんまさん(マッサージ師)は工場で怪我をしたとかで指がなかったが、その方曰くあんま師には戦争で手足を無くした先輩たちがいると言っていた。

障がい者という呼称も無かったあの頃、今では蔑称としても消えかけの単語たちは当時、当たり前の呼び方だったし一部それ自体が職種名であったと記憶している。

肢体一部欠損した者などに与えられた生きる術、出来る仕事、としてあんま師があったように。

地域性なのかもしれないが、現在私の知るこの地域での障がい者雇用の多くは清掃員・資源ごみの分別・通勤での内職が主であって、福祉施設の多くはそれらと並行して畑や食堂やパン屋を営んでいる。

障がい者の社会参加への活動は、その名称のない頃からこの国に続く平和と平等のための歴史の長い活動だと思う。

未だに収入格差や差別はなくならないけれど、社会的・性的なマイノリティを私が公言出来ていることは多くの活動や先人たちの上にある平和の形のひとつだと思う。


高齢者のためのホームに行くと、戦時中の写真ばかり眺めている方や草木ばかり描く人、母が学校にいると聞いたからここを出たい学校はどっちにあると聞く方などがいた。

どの方も、戦争の傷跡が見える。

「お母さんが学校にいる」それが町内看護であったり…むしろ多くは空襲で負傷または死亡したことである、と通じないのは私たち世代であっても既にままあることで、私はこの現実と、先日のTVの中の学生の発言の現実と、これらに受けた驚きや悲しみを受け止めながら、多くを聞かせ多くを見せてくれた大人達に感謝を思う。


当時は嫌だったけども…夏休みに墓地を巡るのも、ホラー番組だけでなく戦争特番もあって死にばかり目を向けさせられる夏番組の改編時期も、学校の廊下が禍々しい写真だらけなのも。

けれど、徴兵もなく海外で戦争することもなく内戦もなく70余年の非戦争を有言実行してきたこの国の平和への強い願いは、忘れることなく広がって、これからもずっと続いていって欲しいと思う。


いつものようにぬるっと終わります。ではまたー。

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