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夜のまなざし。

夜のまなざし。

 その日、僕は割と遅くまで仕事をしていた。徒歩通勤なので電車の時間が気にならないこともあって、いつも成り行きで仕事をしてしまうのだ。サラリーマンでもなく気軽なもので、“一人ブラック企業”などと自嘲気味に人には話したりしている。
 たぶん事務所を出たのが23時頃だったと思う。深夜というほどでもない、日付が変わらないうちに家にたどり着きたい人がカツカツあるいているような時間帯。なかには酔っ払いもいる。

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湖面を滑る小さなボート。

湖面を滑る小さなボート。

誰もいないチミケップ湖。
湖を取り囲む木々の濃淡が湖面に写り込んでいる。境目は曖昧で、どこまでが山の木々でどこからが湖面に映るそれなのか、わからない。そんな風景に見とれていると、視界の外から、音もなく手漕ぎボートがフレームインしてくる。櫓は上げられていて、滑るように湖面を渡ってくるのだが、やがて水の抵抗に負けてスピードは緩みそこに佇む。まるで致景の風景画が完成するがごとく。

わずかばかりボートが

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口開けのレディ

その人は、気まぐれにやってくる常連だった。

たいていその日の最初の客で、こんばんはというのが憚られるような時間に現れて、小さな声で「こんにちは」といって店に入ってきた。

男性の常連客のように、カウンターの隅っこを好むということもなかった。ふらふらっと何も考えずにストゥールに腰をかけるという風で、ただ、続けて同じところには座らないということだけが彼女のルールなのかもしれなかった。

「いらっしゃ

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ルル

ルル

ルル(Rulles)・エスティバル。
小さな醸造所ルルの夏(エスティバル)という名のベルギービール。

「ルル(Lulu)・オン・ザ・ブリッジ」。
ポール・オースターのシナリオ。そして監督の映画。
サックス吹きのイジー(ハーベイ・カイテル)が
演奏中に弾丸に倒れる。
命は取り留めたものの、サックスの吹けなくなったイジーは
抜け殻のように街を彷徨い、見知らぬ輩の死体を発見してしまう。

東京都美術館

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ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ

ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ

アポトーシス。
私たちは獲得した細胞を後生大事に抱えて老いるのではない。
細胞は自ら死し、新たな細胞を迎え入れる。

私たちはわずかに位相をずらしながら、
自らを更新しているのだ。

私は私に戻れない。
私は未来にいない。

1981年5月。早大大隈講堂裏特設テント。
「朝日のような夕日を連れて」で旗揚げをした第三舞台。
私はこの旗揚げ公演を観た700人のうちの一人だ。

演出家・鴻上尚史が、この

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Country Roadは夕陽に染まって。

Country Roadは夕陽に染まって。

若くて魅力的な彼女が、インスタで報告していた展示会
「柳本浩市展
“アーキヴィスト-柳本さんが残してくれたもの”」を
少し前にsix factoryに観にいった。

驚くべき量のモノと情報。
現代版の汗牛充棟。

私はほぼ同時代を生きてきたはずなのに、
あまりにシンクロするものがない彼のコレクションを
心高まることなく眺めていた。

が、彼の略年の中で「スポーツ・トレイン」という言葉をみつけて

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高校生と大柄な女性。

冷房の風が直接体に当たるのが寒くて仕方ない。電車ではドアから一番近いシートが空いていればそこに腰掛けるようにしている。駅に着いて扉が開くたびに外から流入してくる空気の暖かさで一息つくのだ。
ある私鉄の乗り換え。反対側のホームには、その駅始発の電車が既に待っていた。乗っていた電車のドアが開くと、反対側のホームに止まっていた電車に乗り込み、目的のシートに腰を下ろす。
すると、目の前には高校生が座ってい

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階段にいるひと。

階段にいるひと。

ふだん使うことのない都営線の駅で、乗り換えのために構内を歩いていた。改札をいったん抜け、左に折れ、階段を下る。数メートル下に踊り場があり、向きを変えてまた下っていく。踊り場の奥上にはコーナーミラーが設置されていて、そこにイヤフォンで音楽を聴きながら上がってくる若者の姿が映っていた。クリッピングポイントを取ろうとした彼を私は辛うじてよける。
そこで私は向きを変え、さらに階段を下っていく。と、階段の途

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