竹遊亭田楽
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素人と玄人を架橋する「灰人(グレート)」な私
素人と玄人の間の分断は深刻さを増している。
玄人は、素人の無知無能を嗤い、素人の浅はかさを侮り、素人の不真面目さにため息をつく。
素人は、玄人の傲慢さを蔑み、玄人の狭量さを誹り、玄人の優位性に疑いの目を向ける。
なかなかもって嘆かわしい事態である。
本日も竹を割りながら、その分断のもたらす悲劇に思いを馳せむせび泣いていたところ、ある妄念がぽかりと浮かんだ。
素人と玄人を架橋する灰人(グレ
“結果”としての「老後」を生きる
ふと思った。
“ある時”まで、食べてきたもの、見てきた景色、嗅いできた香り、聴いてきた音、触れてきたもの、発してきた言葉、会ってきた人、過ごしてきた時間、沸き起こってきた感情、犯してきた失敗、流してきた汗と涙、
それらの“結果”が、「老後」なのではないか。
その“ある時”を境に、“結果”としての「老後」が始まるのではないか。
そしてその“ある時”がいつ来るかは、人によってはそれこそ40代で
「ほんとう」はいつも「身体」の方
「いい」と思ってないことに「いいね」したり
「素敵」と思ってないことに「素敵」とコメントしたり、「美味しい」と思ってないものを「美味しい」と言ったり、「美しい」と思ってないことを「美しい」と言ったり、「好き」でもない人や場所やモノやコトを「好き」と言ったりするの、
本当に誰のためにも何のためにもならないし、むしろいろんな人やモノを傷つけたり損なったりするから、やめた方がいい。
とか書いたところ
44歳おっさん、初パーマをかける
ある人々には当たり前のことが、別のある人々には経験として抜け落ちている、ということが往々にしてある。
それは例えば、ゴルフでありスーツ出勤でありパチンコでありキャバクラであり風俗である。ある人々にとっては当たり前のそれらは、私の44年の人生において経験としてごっそり抜け落ちている。なんてこった。それらが当然の人々からすれば「今までどうやって生きてきたんすかマジで」というレベルですらあるだろうけど
「独りでもやる人」と一緒にやりたい
私は「独りでもやる人」と一緒にやりたい。
私は基本的に独りでもやる。独りでやる時間が好きだ。でも独りでは続かないことも知っている。独りの孤独や寂しさに耐え続けられる強い人間でもない。独りがいいけど、独りは嫌だ。
独りの孤独や寂しさに耐えかねて、「独りではやらない人」と一緒にやろうとすると、更なる悲劇が待っている。「独りではやらない人」は「人と一緒でもやらない人」であることが大半で、一緒にやって
悔し涙を流れるままに
「悔し涙」という言葉を知ってはいたけど、それは「地団駄」とか「ふくれっ面」とかと同じくらいの、ある種漫画的な表現でしかないと思ってた。
だがツルトは、悔し涙を流していた。
兵庫県佐用町で開催した竹細工講座に参加したツルト(6歳)は、講座史上最年少にも関わらず講座の時間中(全6日間、合計36時間)一度として手を止めることなく、竹と竹割包丁と自身の身体と真摯に向き合い続け、大人顔負けの成長を遂げた
「無料」は何を守るのか
みんな大好きな「無料」。
特にいつも「お客様」としてしか振る舞わない人たちにとってそれは、揺るぎない「正義」として肯定的に映る。
「無料」ならやります!
「無料」ならもらいます!
でもいざ「お客様」を離れてみると、「無料」はなかなかにあやしい。
モノやサービスを提供するために費用や労力がかかっている以上、何か対価をもらわない限り、循環の輪は断ち切られ、持続は不可能となる。その対価としてもっ
結婚とは、聖域のすり合わせである
すまない。のっけから引用のふりをした。アリストテレスはそんなこと言ってない。これは私の考えたテーゼである。
結婚生活は、極めて地味な聖域のすり合わせ作業に他ならない。どちらか一方の聖域ばかりを優先していたら結婚生活は早晩破綻する。それはつまり相手方の聖域が常に踏み躙られることを意味するからである。
どんなに価値観の近い二人であったとしても、聖域がピタリと一致するなどということはありえない。なぜ
ウソがつけなかったイト
5歳のイトとトランプでババ抜きをした。
二人でやったから、最後はどちらかにババが残って、ババを引けば続くし、ババ以外を引けば終わる、というサドンデス方式。
イトの方にババが残った。
意地悪な心理戦を仕掛ける私。
「これはババですね?」
イトの2枚のうちの1枚のカードを指先でつまみながら尋ねる。
「…いいえ」
どう見てもウソではない。躊躇の仕方や言葉のトーン、これを5歳が演技でできたら
いっそゴミなら、せめて「マシなゴミ」を
私は日々ゴミを作っている、という自覚がある。
私は竹細工を生業にしていて、様々なものを竹で作る。ハタから見たら、素敵なモノが作られているように見えているかもしれないし、「ゴミじゃないよ」と思う人もいるかもしれない。
でも率直な実感として、私はゴミを作っている。
なにも私だけではない。
今日も世界中で多くの人々が、気が遠くなるほど膨大な量のゴミを作り出している。
少なくとも私には世界はその
「夢見ガチ」を求めて 〜「ガチ」でなく「ゆるく」もない場を〜
何かと「ゆるく」と言いたがる人がいる。「ガチ」に疲れたか、「ガチ」に絶望したか、その理由はわからないけど、何かと「ゆるく」と言いたがる。
「ゆるく」取り組めることも確かにあるのかもしれない(あまりイメージできないけど)。
でもどう考えても、どう逆立ちしても「ゆるく」は取り組めないことも多い。
例えば、
「ゆる〜く狩猟をやりたいんです」
とか
「ゆるゆるとヒマラヤ登頂を目指したいんです」
対ステルスストレス戦線異常あり
先日、都会から離島へと移住した知り合いが思いがけずこう言った。
人々は日々、ストレスを溜めたり、ストレスを解消したり、ストレスを我慢したりしてる、つもりでいる。つまりストレスを自覚している、という前提で話は進む。
ところがどっこい本当のストレスは内に潜る。意識にすら上らない。自覚なんてもってのほか。その、身体のみが知覚している【ストレス】こそがストレスの本丸で、自覚できてるストレスなんて氷山の
自由になるために、技術を
音楽にしても手仕事にしても、自由になるためには技術が必要で、技術がないまま自由に振る舞おうとしても、その自由の範囲が非常に狭いので、結局それは不自由となる。
では技術を身につけるために学べばいい、と簡単に考えてはいけない。
この社会においては、技術を身につけようとすると、既述の技術不足による不自由を遥かに上回る不自由を押し付けられることが圧倒的に多い。
それは大抵以下のような呪詛の言葉を伴う