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小説「水族館物語」/小説「落下傘ノスタルヂア」

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水族館物語(8)終

水族館物語(8)終

 魂がぬけてる、意識がない、なんだか分かんない、もどってくるまでに時間がかかる。一時的に馬鹿になったみたいで、鼻から吸った空気が、耳から出ていく。からっぽの筒になって、ここはどこなんだか、本当に分かんない。ああ、学校だ、学校だ、学校だけど、むきだしの学校が気をぬいてわたしに本当の姿を見せていて、机とかいすの足に、いちいち長い影がのびていて、つめたい内蔵みたい。そろそろ脳みそがあたたまってくる、ここ

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水族館物語(7)

水族館物語(7)

「海面が上昇する」
「ほう」
「隕石かな」
「かな、と聞かれても。さあ」
「隕石が落ちてきて、津波か。津波だと、一回ひいたら、海面はまた落ち着くのか。日本とか沈没するかもしれないけど。やっぱり、温暖化あたりか。じゃあ、太陽が異常に活発化して、気温が上がる。隕石も落ちてくる」
「いいんじゃない」
「隕石が落ちてくる、それをきっかけに、急激なものだろうね。三週間とか、せいぜい、二ヶ月くらい。そのくらい

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水族館物語(6)

水族館物語(6)

 弥子が肩から顔を出し、手もとの参考書をのぞきこむ。
「すごいね、英語だね」
「そう、これ全部覚えられたら、本当にすごいよね」
 弥子がはなれるまで勉強は休むことにした。参考書を閉じ、くもりガラスの割れ目から、外をうかがう。白と黒と灰色の墓石が正確な遠近感で林立している。それぞれが立ちのぼる熱気に輪郭をゆらめかせているが、密度のある濃い空気がレンズになって、ふと手がとどきそうなほど近くに見えたりも

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水族館物語(5)

水族館物語(5)

 両手のビニールぶくろを肘にかけて、貴之はポケットをかきまわしていた。わたしが持ってあげると言っても聞こえないふりをしながら、体をねじっている。結局、上着のほうのポケットに入れていたらしく、照れくさいのかなにも言わずに鍵をさす。たっぷり五分くらいは部屋の前でごそごそやっていた。
「男の服って、ポケットが多いから大変だね」
 わたしは余計なことを言ったような気がして、すぐに後悔する。貴之は玄関に腰か

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水族館物語(4)

水族館物語(4)

  教室。正面に教壇と黒板。上手が廊下、下手は校庭に面している。まだ外は明るく、時計は三時ごろを指している。

  ひとりの少女が、下手側の席で、本を読んでいる。

男 (上手より登場)なにしてる
少女 (顔をあげ)先生
男 本を読んでるのか(言いながら近づく)
少女 はあ
男 どんな本
少女 (本を閉じ)シャーロックホームズ
男 ふうん(少女のとなりにすわる)

  廊下を誰かが走り去る。

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水族館物語(3)

水族館物語(3)

 バス停にすがりついたわたしは、まだ半分なのかと帰り道の長さにうんざりする。バスで二十分の距離を歩けば何分か計算しようとするが、ほてった頭ではなにから考えればいいのかも分からない。
「おなかすいた」
「うん」
 はっとして顔をあげると、ベンチに浴衣を着たふたりがすわっていた。柄と色で、なんとなく男女らしいと分かる。待合所のささやかな軒の下に月の光から逃げるように、そっと身を寄せていた。肩から上は闇

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水族館物語(2)

水族館物語(2)

「ここがウサギ小屋」
「ウサギは」
「もういない」
「日あたりが悪いね」
 しめった空気が、金網のむこうで、ゆっくりとかたまっていくようだった。黒っぽい粘土に、ウサギの掘った穴がいくつも口を開けていた。
 しずかだった。蝉はときどき思い出したように、唐突な、悲鳴のような声をあげるだけで、眠ったような時間は停滞して動こうとしない。なつかしいと思うには、あまりにも変わりすぎていた。同じ場所に立っている

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水族館物語(1)

水族館物語(1)

 ここからでは、水槽の一部しか見ることができない。テーブルに頬杖をついて、カーテンの切れ目から、ぼんやり店の外をながめていた。貴之は、サメが入る水槽なのだと言っていた。日本初になるめずらしい種類だそうだが、本当かどうか分からない。小さな泡が風に巻き上げられた粉雪のように、くるくると舞いあがって、でも、二度と落ちてくることはない。それはななめにわたしの視界を横切りつづけ、水槽の水が絶えず循環している

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落下傘ノスタルヂア(14)終

落下傘ノスタルヂア(14)終

「だから」
 と微妙に節をつけ、吐き捨てる。何度もこの言葉を繰り返しているらしいぞ、と気づく。
 だから、と言うたびに、奈津美のほうは、はあ、と語尾をきつく吊り上げる。だから、と、はあ、の相乗効果で、ただの道案内が、だんだん口論らしくなってくる。
「バスターミナルに着いたでしょ、バス。で、まっすぐ来たね。そしたら、でかい道に出たでしょ。そこで右に曲がる。曲がったね」
「曲がったよ、たぶん。分かんな

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落下傘ノスタルヂア(13)

落下傘ノスタルヂア(13)

 山本が置いていったハッピは、ぺらぺらしていて、最悪の着心地で、通気性も悪く、ごみぶくろでもかぶったような感じがする。佐藤が、それなら脱げばいいと、口をとがらす。
「いや、もどってくるまで着てる。テントのなか、すずしい。座れるし」
「まあ、いいけど」
 となりで、佐藤もおそろいのハッピをはおっている。ヨーロッパの街にも似て、教会を中心に、宿舎と宿舎のあいだへ放射状に道が通っている。教会にあたるのは

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落下傘ノスタルヂア(12)

落下傘ノスタルヂア(12)

「で、どういう意味だと思う」
「分かんない」
「考えようともしてないじゃないか。考えろよ」
「いや、本当に分かんない。え、なにそれ。やどかり、って」
「なんでしょう。分かる、分かる。十分ヒントあたえたはず」
「分かんない」
「もういいよ、じゃあ」
「なに」
「十秒でいいや、まじめに考えてみな。いち、に、さん、し、ご」
 うねうね曲がりくねった縁石を綱わたりしてきて、どこまで来たのか、そろそろたしか

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落下傘ノスタルヂア(11)

落下傘ノスタルヂア(11)

 この前泰子たちと入ったときは、カレーの具になったような気分だったが、ひとりきりでつかっていると、また別のおもむきがある。天窓から、まっ白な光が、サスペンションライトのように降りそそぐ。わたしの目の前で、星雲の映像みたいに、お湯の表面をきらきらさせている。天窓のむこうは、あの天窓さえ越えれば、と、お尻をすべらせて、耳まで沈みこむ。そうか、アンドロメダまで一直線なんだな、と思う。
 朝風呂、といって

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落下傘ノスタルヂア(10)

落下傘ノスタルヂア(10)

「学習しない人間は馬鹿だ。成長しない人間は、くずだ」
 生きているだけで十分、みんな人生とうまいこと折り合いをつけようと、がんばっている。わたしはそういう博愛主義者なので、泰子のありがたい箴言にも、ちょっと賛成しかねる。とはいっても、いまのわたしは貯金を食いつぶしながら、お店の座敷で生活、というか座敷に生息しているだけで、馬鹿かもしれず、くずかもしれない。学習、成長、たぶんわたしにあてはめると、奈

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落下傘ノスタルヂア(9)

落下傘ノスタルヂア(9)

「どんな子ですか。かわいいですか」
「さあ。ふつうだと思いますけど。でも、若いぶんだけでも、わたしなんかより、ぜんぜん」
「そうですか。まあ、別にそんなことで採用かどうかなんて、決めませんけどね」
「いい子ですよ。素直で」
 店長は、わくわくするのをまったく隠さず、さっきから泰子のことばかり言っている。自転車をあいだにはさんで、なにか聞こうとするたびに、こちらへにゅっと首を伸ばしてくる。
「そんな

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