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“スイスの千畝”に着想を得た、少年たちの友情(園部哲)

「園部哲のイギリス通信」第8回
"THE GUSTAV SONATA"(グスタフ・ソナタ)
by Rose Tremain(ローズ・トレメイン)2016年出版

著者は1943年生まれの英国人でイースト・アングリア大学の現総長。余談ながら同大学はカズオ・イシグロやイアン・マキューアンなどの作家を輩出していることで有名だ。
さて、トレメイン。彼女は1976年以降14冊の小説を刊行しているが、邦訳は1989年にブッカー賞候補となった”Restoration”が2016年に『道化と王』として出たあと、"Music and Silence"が2017年に『音楽と沈黙』として翻訳されている。彼女の作風は純文学をやや大衆文学に寄せた読みやすいもので、歴史的事件やヨーロッパ大陸に題材を求めたものが多い。

本作品はスイス(架空の町マッツリンゲン他、ベルン、ダボスなど)を舞台にした二人の少年の友情物語。時間的には1937年から2002年まで。二人の少年の両親たちの結婚から始まり、二人の誕生(1942年)から60歳になるまでをカバーする。但し三部構成の本作品の物語は時系列的には進まず、第Ⅰ部1947-1952年(戦後)、第Ⅱ部1932-1942年(戦前・戦中)、第Ⅲ部1992-2002年(現代)と、第Ⅱ部が「過去の回想」としてフラッシュバックされる。

ある意味で第Ⅱ部の戦時中の物語が本書の心臓部であり、イギリス人の著者がわざわざスイスを舞台にした小説を書いた理由もここにあるだろう。第二次世界大戦中にリトアニアの日本領事館に難民ユダヤ人に対して日本行きのビザを発行し続けた杉原千畝がいたが、そのスイス版ともいうべき実在の人物ポール・グリューニンガーの行動に触発された著者は、彼を小説のなかに取り入れたくてたまらず本作品を著した。従って、舞台はどうしてもスイスでなければならなかったのである。
<参考としての史実:1938年8月にユダヤ人に対して国境を閉ざしたスイスだが、オーストリアと国境を接するザンクト・ガレン州の警察官グリューニンガーは数千人のユダヤ人のために偽造書類を作り続けた。彼は1941年に有罪を言い渡され、年金受領資格も剥奪されて1972年に極貧のうちに死ぬ。>

対照的な二人の少年、それを取り巻く時代と人間模様

第Ⅰ部、第二次世界大戦直後のスイスの幼稚園で出会った二人の少年、貧しいグスタフと裕福なアントンが対比される。平凡なグスタフとピアノの才能に恵まれたアントン。グスタフは生粋のスイス人だが、アントンはユダヤ人だった。
まちがいなく主人公はグスタフだが、陰の主人公はグスタフの母親エミリエだと言える。
母親を溺愛するグスタフをなぜか手放しで愛することができず、常に不幸感をまとうエミリエは、ことあるごとに亡き夫エーリッヒを「あの人は英雄だった」と讃える。しかしグスタフには父親の記憶がない。また、なぜ母親がユダヤ人を敵視するのかわからない。

一方、幼いグスタフとアントンの友情は密になってゆく。裕福なアントンの家に招かれたり、一家揃ってのスケートに誘われたり、アントンの母親アドリアーナの優雅なスケートに魅せられるグスタフ。
一方、コンサート・ピアニストを夢見るアントン。グスタフはアントンの初めてのコンクールへ応援に行く。だが、アントンは緊張のあまり失敗する。友情と同情の対象であるアントンを自宅に連れてくるグスタフだが、ユダヤ人嫌いの母親エミリエはアントンにも冷淡だ。
こうして第Ⅰ部は、対照的な少年の友情物語が軸になっているが、グスタフとエミリエという、あまり幸福ではない母子家庭の情景が、読者の心に妙な手触りを残し、家族の不幸のそもそもの源泉であるらしい夫・父親エーリッヒとは誰か?という謎も残す。

第Ⅱ部の主人公は謎の男エーリッヒである。町のホテルの給仕娘エミリエと偉丈夫の警官エーリッヒとの肉体的な出会いから始まる。二人は結婚するが、赤ん坊の流産(彼らは男の子ならグスタフと名づけようと決めていた)をきっかけに二人のあいだに不幸な隙間ができる。第二次世界大戦が勃発し、国境に迫るナチスドイツの脅威もエーリッヒのストレスを高める。さらにエーリッヒは彼の上司ロジャー・エルドマンの魅惑的な妻、ロッティに恋着する。
スイス司法省がユダヤ人入国禁止令を発したのち、上司ロジャーの入院中、エーリッヒは偽造書類を作ってユダヤ人を大量に入国させる。ロッティとの関係は激しい肉体関係に発展する。
ついにエーリッヒの書類偽造がばれ、彼は職もアパートも年金も失って追放される。市電車庫の夜勤に身をやつすエーリッヒ。ロッティとの関係も断っていたが、ある夜彼女から誘惑の手紙が来る。自制しきれぬエーリッヒは夜勤明けにロッティのもとに駆けつけるが、彼女のアパートの前の通りで死ぬ。

第Ⅲ部は時代が一気に現代へ移り変わり、1992年から始まる。50代になったアントンの過去の追憶。結局ピアニストになることができず、地元の音楽学校教師になったアントン。その後、こじんまりとしたホテルの経営者になってしまった自分の人生を回顧する。
そんなアントンに突然、朗報が訪れる。彼にベートーベンのピアノソナタ全集を吹きこまぬか、というCD製作会社からの誘いが来たのだ。マッツリンゲンなどという辺鄙な町を去り、華やかな世界へ旅立つことができると信じたアントン。だがそれは短い夢に終わり、アントンの精神状態は不安定になってゆく。息子アントンに夢を託した母親アドリアーナの失望、グスタフはそんな彼女を慰める。
父親エーリッヒの上司だったロジャー・エルドマンは既に他界していたが、彼の周囲にエーリッヒの死の謎を解く鍵が隠されてはいまいかと探るグスタフ。その過程で寡婦ロッティと親しくなる。そしてついに父親の秘密を聞く……。

「完璧な人生などないことを、完璧に描いた名作」

スイスを舞台にした小説の珍しさ――それも、ヒトラーとムッソリーニに挟まれた時代のスイスを描いた小説の珍しさは、読者の関心を引くだろう。「スイスの千畝」を売り物にした作品ではないけれど、史実に即した面があるのも興味深い。二人の少年の友情物語という素朴な枠組のなかに、彼ら自身と彼らを取り巻く複雑でときには官能的な大人の世界が描かれるが、それを240ページという比較的短い分量のなかに盛り込んだ手際は鮮やかである。
ある新聞が、「完璧な人生などないことを、完璧に描いた名作」と評したが、うまい言い方だと思う。感動を呼ぶ大作、という位置づけにはなるまいが、きわめて良質な文芸エンターテインメントである。

執筆者プロフィール:園部 哲 Sonobe Satoshi
翻訳者。通算26年ロンドン在住。翻訳書にフィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流:「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源』、リチャード・リーヴス『アメリカの汚名:第二次世界大戦下の日系人強制収容所』(いずれも白水社)。朝日新聞日曜版別紙GLOBE連載『世界の書店から』のロンドンを担当。

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