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谷古宇 時生
2020年5月2日 19:02
昔、母とした約束がある。夜。歩(あゆむ)はコーヒーを淹れて、ベランダから向かいのマンションの空き部屋をぼんやりと見つめていた。3月も終わりに差し掛かるというのに、ひやりと風が頬をかすめた。◆「死」について母と話したのは、あとにも先にもこの時限りだ。それは遠い思春期の記憶。もう二十年近く前のことになる。歩は十二歳で、当時、埼玉県の県営団地に住んでいた。母は三十五歳、昼間は倉庫で働き
2019年9月7日 14:37
午前二時、ビルの屋上で、蛍のようにあちこちに赤いランプが灯っている。二宮燈子は、まだ生温かい夜風に吹かれながら、フェンスを越えて二十階建てのビルの下を覗き込んだ。ひゅっ、風を切る音がする。◆ ここから飛び降りれば、わたしと世界は終わる。不思議と怖さは感じなかった。ただ、背中のあたりがひりひりと痛むだけだった。夏服の袖が、ひらひらとたなびいている。燈子は夢の続きのような、心地よいけれど自分
2019年9月7日 14:27
ープロローグー九月一日。晴れ。村瀬祐樹はぎゅっとハンドルを握りしめた。夏が終わろうとしている。高校三年生の夏に、値段をつけるとしたら、いくらの値がつくのだろう。夏特有の広くまじりけのない空に、雲が駆けている。遠くには海が見えた。 白い鳥が、村瀬の横をゆうゆうと横切った。気持ちよさそうに飛んでいる。一瞬鳥と目が合った気がする。「おまえに飛べるのか」言われた気がした。鳥の名
2019年9月5日 23:05
夕刻。ホテルのラウンジには西日が注いでいた。奥のテーブルに、一組の男女が、向かい合って座っている。「お時間頂きありがとうございます」「あなたが佐伯さん?てっきり男だと思ってましたよ」 男が鞄を脇に下ろし、手帳とペンをテーブルの上に置いた。女は答えなかったが、男に向かって微笑み、手元の書類を一瞥した。「エージェントの佐伯です。事前に職務経歴書を送って頂きありがとうございました」「いえ