精神病院物語第二十四話

精神病院物語-ほしをみるひと 第二十四話

 それからしばらくめぞん一刻ばかり読み返していた。主人公の浪人生に自分を重ね、こんな恋ができたらどんなに良いだろうと憧憬を抱いた。この漫画があることをもっと早く知っていたら、もっと自分は前向きに頑張ったのではないか、と妄想するほどだった。
 しかしあくまでこれは借り物である。借りっぱなしでいるわけにもいかなかった。
 それで猿男に返すことにすると彼は「もうそれあんたにやるよ」といってくれた。少し迷ったが、筋を通すためにちゃんと返した。
 猿男という印象が自分の中で定着してしまったが、これを機会に名前を聞いてみることにした。いくらなんでもこんな素晴らしい思いをさせてくれた人を猿扱いするのは失礼極まりない。
「あ? 知らなかったの。御子柴大輔っていうんだよ」
「み、御子柴……」
 予想の斜め上をいくかっこいい名前だった。
 めぞん一刻を返してしまうと、それ以上なにもすることがなくなってしまった。僕の持っている物は画材と、ヤングジャンプ一冊。漫画本が数冊。そして小説が一冊。
 この小説は何度も読もうと思った。しかし活字を読もうとすると、一分も持たず疲れてしまう。だけど活字を読むことが自分にとって良いことなのはわかっている。集中力さえあれば、この一冊でどれだけ楽しめることか。
 今日も試しに開いてみた。しかし三行読んだだけでもう駄目だ。集中力が持たず、活字が目に入るのも辛かった。
 疲れると布団に体を任せて休まねばならない。残念ながらこれが僕の現状である。漫画はなんとか読めるけれど、小説はやはり駄目らしい。
「はあ……なにもしていないのに、疲れた」
 腕で顔を覆う。息が詰まるような疲労感でベッドから動けない。病棟で延々と寝ているせいか、常に寝る癖がついてしまった。まだ真っ昼間だというのに、僕の意識は遠のき、眠りに入っていった。
 夢の中では良いことばかりがあるわけではない。今までにあった嫌なことも、今起こっている厄介なことも、頭に浮かぶ先からやってくる。
 今日は小滝さんの姿がみえた。トレーニングジムで知り合った女性。今では連絡先もわからないあの女性のことが。
 ずっと、考えないようにしていた。なにもかもが妄想なら、実際考える必要もないはずだった。
 だけど僕の思いに反して、あの人の存在は大きくなっていった。そのことを考えるだけで、僕は自分の考えが崩れていくのを感じるのだ。
 あの夜から、来宮さんの姿はみていない。江上はようやく食事の時に顔を出すようになってきたが、まだ声はかけられなかった。話をしたかったが、みんなそれぞれ、不調なメンタルを抱えているようだった。
 入院していると、先の見通しが曖昧になる。だから過去のことばかりが頭に過ぎっては、自分の振る舞いの無力さを憂鬱になるくらい思い起こされていく。
 統合失調症というのは様々な症状があるが、僕の場合は幻聴が聞こえて仕方がない。
 だけど例えば、僕がこの幻聴を幻聴ではないと思っていて、実際に現実にいる誰かから攻撃を受けているのだと確信していたとしよう。散々攻撃を受けた末に入院し、心ならずも治療をすることになる。
 自分は不当な扱いを受けているだけなのに、周りのみんなは僕を「疲れているんだ」「休みなよ」「病気治さないのって歯医者に行かないのと同じだよ」と思いのままに声をかけてくる。僕にとってそれがたまらない。たまらない思いを抱えたまま、治療という茨の道を歩んでいく。
 それで治ったところでどうだろう。周りは「辛かったね」「がんばったね」とは言ってくれるかもしれない。しかし自分自身はただ酷い目に遭わされて散々人生を浪費した末に、行き場のない恨みを抱えたまま、それを真実だと証明できない悔しさに耐え続けなければならないのだ。たとえそれが僕の妄想だろうが、感じることは同じである。
 つまりどこまで行っても僕は救われないのではないか。辛くくだらない過去から永遠に解放されないのではないか。
 今までの僕は、この病棟で前向きな気持ちを単発銃のように途切れ途切れ無理矢理に押し出して、絵を描いたり、今まで話せなかった人たちと話そうとしたりしてきた。
 だけど僕には、どこか隙があった。今までその隙を突かれても、努めてそのことを考えぬようにしていた。
 来宮さんのせいだ。
 来宮さんのせいだ。
 来宮さんのせいだ。
 突然、腹の底から僕の意に反して声が湧いてきた。押し殺そうとしても、その勢いは止まらなかった。
 来宮さんのせいだ。
 来宮さんのせいだ。
 来宮さんのせいだ。
 やめろ。やめてくれ。僕はそんなこと考えていない。それどころか一人の相手をそんなに執拗に意識したりもしない。僕は、そんな……。
 来宮さんのせいだ。
 来宮さんのせいだ。
 来宮さんのせいだ。
 やめろやめろやめろやめろ! その声をやめろー! 
 来宮さんのせいだ。
 来宮さんのせいだ。
 来宮さんのせいだ。
 頼むからやめてくれ! 僕はあの人のことをそんな悪く思っていない! 恨みもしないし邪な考えだって持ってやしないんだ! だからもういい加減にしろよ! 僕は、僕は、僕はそんな人間じゃないいいいいい!
「おい! 大丈夫かい君!」
 カッと目を開くと、そこにはいつもと変わらぬ灰色の天井が広がっていた。僕の傍らには、奥のベッドのおじいさんが立っている。
「ぼ、僕は」
 おじいさんはあまり表情が動かないようで、ただプルプルと顔の筋肉が震えている。
「あんたえらいうなされようだったよ。あんまり辛そうだったから心配だった」
「僕は、うなされている時なんていっていました?」
 来宮さん、来宮さん、と僕はつぶやいていたのだろうか。
「やめろ! ってスゴい声で叫びだしたんだ。なにか嫌な夢でもみてたのかい」
「は、はい。とても嫌な夢でした……」
「あんた相当疲れてるんだよ。軍隊にいた頃、友達がそれくらいまいってるのをみたけど、かわいそうだった」
「軍隊って、徴兵されたことがあるんですか」
 このおじいさんは背筋もピンと伸びているし、髪も黒い部分が残っているので、もっと若いと思っていたが、実際は相当に年輩の方だということになる。
「俺は背が高かったから、騎兵隊に入れられたんだ。だけど馬の世話が大変でね。上官も、お前等は赤紙一銭五厘の命に過ぎないが、御馬様には代わりはおらんのだ。って言われたもんだよ」
 旧日本兵だった死んだ祖父のことを思いだした。この世代の人たちも今では歳をとって、年々亡くなってしまっている。
「ご迷惑をおかけしました」
「いいよいいよ。あんたはなかなか利口な青年だから、病気も時間をかければよくなると思う」
 利口な青年、という言葉を聞いて複雑な気持ちだった。なにをもって利口とするかで、どうとでもとれるからだ。病気になってから、どこか僕は偏屈になった。
 ふと、ホールの方から女性たちの歌声が聞こえてくるのに気づいた。合唱、という奴だろうか。
「あれは?」
 僕が手振りで伝えるとおじいさんが「歌の先生が来てるみたいだね」と教えてくれた。
 時計は十四時を差していた。僕は起きてやることもないので、ホールに行って合唱の見物をしてみることにした。(つづく)

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