精神病院物語第二十九話

精神病院物語-ほしをみるひと 第二十九話

 昨日は死ぬかと思うくらいに症状が激しく、最早ここまでかと思ったが、寸でのところで一命をとりとめた。
 僕を助けてくれたのはあの来宮さんだった。僕は以前、彼女のことを片思いしていた。だけど昨日の一件から意識が変わって、尊敬できる先輩のような存在になりつつあった。
 あのとき、来宮さんは狂気すら感じる真剣さで、僕に人のあり方を語ってくれた。来宮さんがこれまで病気で苦しんできた思いも交えて、僕に伝わる言葉をぶつけてくれた。
 僕はおかしくなっていたし、来宮さんもおかしいことで苦しんでいた。彼女はそのおかしいところを、真っ直ぐに向き合った言葉で語ってくれたのだ。
 あんな話は、もう二度と聞かせてはもらえないだろう。僕にとって救いになったし、今も胸に熱い思いが残っている。できることならまた別の話をしてみたかった。
 だが、それで幻聴まで消えたわけではなかった。耳を塞いだり、極力意識しないようにしているが「……死ぬでしょ」「……のせいだろうが」「……んか許さないよ?」みたいに中途半端に声が聞こえてきて、意識しようとすれば、はっきり忌々しい罵声となって認識できてしまうのだ。
 小さい頃から腕力が弱く、かといって人と打ち解けるコミュニケーション力もなかった。弱者とみなされた僕は軽く扱われて、継続的に暴力を振るわれていたし、汚い言葉を何度もかけられた。立場を利用して良いように振る舞う奴らがたくさんいた。そういう自分も生きるのに必死なだけで、誰に親切にしたわけではなかった。
 暴力を振るわれても、孤独に耐え続けても、どこかで自分は希望を持っていたと思う。しかし成人するのを待たず、今度は精神を病み、こうして今も幻聴に追いつめられながら世界から隔離される羽目になっている。
 昔は、相手を恨むだけでよかった。大抵の場合、一方的にやられていたのだからそれが普通の反応だと思っていた。
 だが、幻聴の恐ろしいところは、僕の良心や人格までも否定してくるところだった。小滝さんの一件で声という声に袋叩きにされ、僕の良心はズタズタにされてしまった。
 今でも僕は自分がどういう人間なのかはっきりとはいえないし、昔ほど自信を持てなくなってしまった。それどころか自分という人間が、どれほど他愛のないことを考えるくだらない奴かということを実感している。
 統合失調症とは、過去に精神分裂病と呼ばれていたらしいが、僕にとってはむしろそちらの病名の方がしっくりくるくらいだった。僕の心はまるで本当に分裂してしまったように、訳がわからなくなってしまっていた。
 小滝さんには、悪いことをしてしまった。コミュニケーション不全だった自分にあれこれ世話をしてくれたいい人だった。僕のことを真剣に心配して、真摯な言葉をかけてくれた。
 それなのに、あれだけ優しくしてくれた彼女を、僕はどこか軽んじていた。
 何事もなければ、あんな嫌な思いはさせなかったのかもしれない。僕がたまらないのは、そのことを人間らしく申し訳ないと思えない。歪んだ記憶として残ってしまっていることだった。自分はそのことを悔いたいのに、謝りたいのに、酷いことをしてしまったという自覚があるのに、以前は持っていた素直な感情が、今の僕には動いていない。
 自分は自分でなんとなく思っていたほど誠実な人間でなければ、思いやりにも欠ける軽率な人間だった。そしてそれを押し通すほどの図太い神経もありはしない。自分で嫌になるくらい、底が見えてしまった。
 だけど、これが自分なのである。どれほど浅ましかろうが、良い人間でなかろうが、自分自身からは逃げられやしないのだった。
 開き直れたわけではなかった。だけど僕は死にたくない。自殺願望など持っていない。これからも生きていかねばならないと思っている。自分なりにでも良く生きていきたいのだ。
 ならばこの先、どうするのか。
 こんな僕も、来宮さんのおかげで、多少前向きに考えられるようになっていた。それで幻聴をなるべく意識しないようにしながら、夜通しああだこうだと頭を働かせていたのだ。
 夜が明けた時、たどり着いた結論は極めて単純なものだった。
 結局、ここから始めるしかないのだと思う。
 考えないようにしてきたことも、自分の一部であることに間違いない。それを受け入れながら、これから先を見据えて生きていくしかないのではないか。
 そうなると、具体的にどうするか、というところだが。まずこの幻聴をどうにかしなければならなかった。今のままでは退院すら困難だろうし、たとえ嘘をついて退院したところで、また入院に後戻りすることは想像に難くない。
 だから入院している間に、なんとか幻聴と折り合いをつけられるくらいに回復する必要があった。自分の明日になにが待っているかは知らないが、それができなければ生涯を病棟で暮らすのである。
 今までどれほどの苦痛を受けてきたか、僕は忘れてなんていない。これが二倍、三倍も続いたらそれこそ僕はおかしくなってしまう。だがそれくらい入院、再入院している人はいくらでもいた。ありえないことでは少しもないのだ。考えただけで恐ろしい話ではないか。
 戦わねばならない。僕はこの幻聴という最悪の症状をなんとか解決することを考えていた。思い返してみれば、過去にヒントとなる出来事はあったのだ。
 以前、御子柴から貸してもらっためぞん一刻を読んだときも、幻聴に酷くやられていた。しかし本に集中している間、幻聴の被害が相当に軽減されていたことを僕は忘れてはいなかった。それこそが活路なのではないかと思い当たったのだ。
 僕はちょっと読んで挫折した小説を手に取ってみた。こんな厚い小説、最後に読み切ったのはいつだっただろうか。今の僕は、数行読んだだけでも疲れ切ってしまう。
 だが、その数行読んで疲れるというのは、その数行だけは集中しているからこそ疲れるのである。だったらめぞん一刻を読んだときと同じ効果が、そのたびに期待できるということではないか。
 後の疲れを思うと、本を開くのは勇気が必要だった。しかし、僕は幻聴と戦う決意をすると、付箋紐を引っ張って、久しぶりに読書を再開した。
 金融取引の小説。野心に燃える主人公三人はスポンサーと出会い、多額の資金を提供される……疲れた。
 僕は本を机に置くと、バタンと布団に倒れ込んだ。息が荒くなる。本当に、本当に読書というのは体力を使う物だった。
 しばらく休むと、また本を開いてみた。記憶と活字が繋がって、すぐに物語の続きに戻ることができた。
 それから数行ずつ。頑張っても一ページ全て読むことは難しかった。それでも少しずつ続けては、疲れ切って布団で休む。絶え絶えの息づかいで天井を見上げる。
「疲れた……死ぬ……」
 全力疾走したかのように息が荒くなっていた。前向きな行動で疲れるのは悪いことではない。
 僕は手応えを感じていた。さっきまで絶え間なく聞こえていた幻聴が、止まっていたのだ。いわば苦しみによって楽を得る形になっていた。
 しかし幻聴はすぐにまた復活して押し寄せてくる、そうしたらまた本を手に取り「集中」する。
 数行ずつではとても物語を楽しむどころではないだろうな、と思ったけれど、そんなことはなかった。主人公たちが最初の敗北を遂げたときは、疲れて仕方ないのに、早く続きが読みたいと思った。それでもあまり疲れているときは、一時間くらい休まなければ続きが読めないときもあった。
 もちろん最初の敗北はほんの序の口である。これからが物語の本番といってよかった。主人公たちの立場は複雑なものとなり、制限がついて思うがままに動けない中でも、各国のライバルたちと駆け引きをしながら、金融取引の荒波に乗り出していく。こうして読んでみると、学生時代ほとんど本を読まなかったのが悔やまれるくらいだった。こうして制限がつき、ほとんどまともに読めなくなった今になって読み始めている自分が不思議だった。毎日毎日、少しずつページを進め、いつの間にか半分くらいまで読み進めていた。
 本だけでは対処しきれないくらいに酷いときは、とにかく場所を変えてみた。トイレに行くため移動すると、幻聴の波も多少変化する。その後また本を読む。とにかく幻聴をやり過ごすためのアクションを増やした。それもまた、効果が出ている手応えがあった。
 幻聴は止まらなかったが、抵抗できず言葉に苦しむだけではなくなった。さらに今までできなかったことができるようになっていた。本を開く回数は日に日に増え、病棟に閉じこめられている苦痛までが軽減されてきた。
 僕はついに幻聴に対して抗する術をみつけたのかもしれない。少なくとも僕にとって、なにかに集中するというのはとても有効な自衛策のようだった。(つづく)

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