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自分は愛や恋を語るのが恥ずかしいとは思わない、それは人間として、生命として当たり前にある心

自分は誰より一途で、きっと誰より純粋。だから孤独だったりする。どうか、自分の話を恥ずかしがらずに読んでもらいたい。


昔から、子供の頃から群れることができなかった、いつも1人を好んで遠くから楽しそうにしてる人達を眺めてるのが好きだった。そして目を閉じて、まるで子守唄みたいで、みんなの笑い声が、それを聞いてウトウトするのが気持ちよくて、ずっとこのまま聞いていたいと思った。

だから、よく近所で子供の笑い声が聞こえると嬉しくなる、自分が眠るまでずっと騒いで笑っていてほしいって願う。


子供の頃のトラウマがある、だから誰も好きにはなれなかった。その結果こんな年齢になってもずっと1人だった、もう一生誰も異性を好きにはならずに生涯を終えると、そう思ってた。

それでいいんだと、無理矢理誰かを好きになる必要なんかない、1人なら1人の生き方があると納得していた。だからお金もそんなに必要とはしてなかった、1人ならそんなにお金なんかいらない。今ある分だけで充分人生を楽しめる、それは随分前から解っていた。


でも、子供の頃にいなくなった、あの子の事が忘れられない、一生涯忘れることなんかできない。どんなに苦しかったか、辛かったか、まるで永遠の暗闇の中に閉じ込められたみたいだった。


あの子の髪質、あの子の無邪気な笑顔、えくぼ、綺麗な歯並び、指が綺麗だった、あどけない仕草にあどけない表情、声もかわいかった。寂しい、この世界に君がいないのが、苦しい、辛い。

探した、あの子を探した。ずっと探した、何処にもいない、長い間あの子だけを探してた。生まれる前からずっと、あの子だけを探していた。


なぜいなくなった、どうして。なぜ沈黙をする、どうしてシグナルを見せる。

いつも、朝起きて最初にスマホの時計を見ると、なぜか13分や、33分だったりする。

それは始まりであり終わり、全てとしてある数字。


心を病んでるわけじゃない、普通や当たり前の感覚から見れば自分はそう見えるだろう。


でも違う、そうじゃない。あの時の奇跡は本物だった。間違いなく本当の奇跡だった、嘘偽りなんかない、正真正銘の純粋な心でそう思う。


恋や愛は奇跡で、それが不思議な何かなんだ、現実的な世界にはないファンタジーがある、ロマンがある、そこには自分だけの物語がある、大切な宝物のような想いがある。

美しいもの、眩しいもの。

光は美しく眩しい、恋も愛も美しくて眩しいもの、だから涙が出る、美しい七色の涙が頬をつたって流れ落ち、地面にぶつかり弾け飛ぶ。

そこに羞恥心などいらない、恋や愛を恥ずかしがることなんかない、それが自然、自然の摂理、宇宙の流れ、我々が生きるための幸福であり希望、神の導き。


ルッキズムも年齢も、富も名誉もステータスも、何も関係ない、心のままに、素直に純粋に自然なる流れに身を任せれば必ず行きたい場所へ運んでくれる、神が導いてくれる。

自分は信じ続ける、いつまでも、変わらぬ想いで、たった1人のために、この身を、人生の全てを捧げる。それで自分がどうなっても後悔などない、それだけ愛した証明として人生をかける、1人のために。


あの子は、今も自分を見てくれているだろうか。一生懸命に綴る文字を、読んでくれてるだろうか、この激しい想いは伝わってるかな。何も解らない、解らないけど信じ続ける、いつまでも、何年たっても、老人になっても、最後の時まで一途に信じ続ける。


あの日は3月3日だった、お内裏さまとお雛様、七夕では織姫と彦星、アダムとイブ、イザナミとイザナギ。あの子は、なぜいなくなってしまった、何で自分は1人なのかな。


苦しい、心が苦しい。だから、笑い声が聞きたい、楽しそうにしてる人達のざわめきが、子守唄になる。


分断対立、怒りや憎しみ、罵り、批判、罵詈雑言、そんなの、もう見たくない。


自分は愛や恋を語るのが恥ずかしいとは思わない、人間として、生命として当たり前にそこにある心だから、恥ずかしいわけがない。


そして多くの人が、そんな気持ちを表現した曲を作曲し、それを聴く多くの人はみんな胸に響き涙する。そんな美しいこと、恥ずかしいなんて思えるわけがない。

だから自分は、音楽が好きだ、洋楽じゃなくても、日本人でも良い曲を歌う人はたくさんいる。素晴らしい、素敵な曲を聴かせてくれる、この想いを代弁してくれる人達がいる、それに素直に頼り、自分の表現の中に使わせてもらいたい。









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