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なぜ、ポジティブでホスピタリティの溢れる”心優しい”組織で、心理的安全性が壊滅的になり、人が次々に辞めていくのか。

わいの問題意識ドンピシャの話をnoteで見つけたので、久々に長文書いてみようと思います。


そのnoteがこちら、

Noteの内容を要約すると、

『とある病院の看護師のスーパーホワイトな職場(残業10時間以内、年間休日120日以上、男性を含めた産休育休所得率100%。お局様はおらず、師長さんは常に笑顔で恫喝はない)で、なぜか優秀な人間が次から次へと辞めていく』

というお話です。

梶本時代さんのこの事例に対して、梶本時代さんとは違う形で考察を深めていければと思います。

さて、このスーパーポジティブホスピタリティ組織はなぜ「病みがち」なのかという話ですが。

結論、

『意味の空洞化した正しさに支配され、”批判”することができなくなるから』

というのが根本だと考えています。まあ、つまるところの僕がよく言っている感情労働の話です。

ではどうしてこの”批判”が優しい組織で奪われ、"批判”の消失が病むことに繋がるのか、プロセスを追って考察していきます。

《第一フェーズ:”意味がすっからかんの正しい規範”の誕生》

ひとまず、今回のケースの状況を改めて詳しく説明します。
このホワイトに見える職場は、他の看護部署で病んだ人たちが回されてくる部署になってます。
つまるところ、傷ついたり疲弊したり、病んだりしてる人たちが一挙に回される部署ですね。

他の部署で傷ついてきた痛みをお互い知っているし、理解できる。

そうであるが故にそこで生まれる規範は
「お互いを支え合おう」「相手の傷つきに寄り添おう」
などの規範が生じていたものと思います。

さて、どちらもとても素晴らしくいい規範ですね。

「支え合う」

「寄り添う」

24時間テレビとかが泣いて喜びそうな美辞麗句がそこでは現実のものとして現れます。

というところが落とし穴です。

なぜなら、

何を持って「支え合う」なのか。

何を持って「寄り添う」なのか。

一切、定義されてないんですね。

でも、その規範は正しく、美しい。

逆にいうと、その規範に対して疑問を投げかけたり、ロジカルに詰めようとすると「間違っていて、醜く」なるわけです。

みんなが笑顔で幸せな振る舞いをしている中、真顔で不幸せな感じの様相を抱くだけでめっちゃ浮くわけです。

結果、正しく美しい規範に共感できない愚か者として、やんわりと笑顔でにこやかに排除される。

なので、誰もその意味を正確にわかってないにも関わらず、誰もその意味について言及しようとせず、でもその規範に沿う言葉がその組織では並び立てられるようになります。

《第二フェーズ:”中身のすっからかんな正義”に基づく相互監視社会の完成》

では、誰もその意味をわかってないのに、「その規範に沿えているか、沿えてないか」をどう判断するのか。

結論、

『その規範に照らし合わせた判断ではなく、その組織にいる他の人々、あるいはそこで実権を持っている人の顔色』

になっていきます。

お互いがお互いに、「支え合って寄り添っているのか」を判定していく。

そこでは本当の意味で「支え合い、寄り添っている」のではなく他の人と同じような振る舞いをしている=正しく「支え合い、寄り添っている」という判定になっていきます。

そこでは創造性などというものは完全に消失していきます。

他の人の振る舞いから逸脱しないように、むしろ自分のオリジナリティをいかに消せるかを「考える」ようになる。

思考が恐れによって完全に支配されて、萎縮したポジティブとホスピタリティがその場を支配するようになります。

《第三フェーズ:”中身がすっからかんな正しさ”を振る舞えない個人が自己責任化していく》

さて、そんな相互監視に基づく、笑顔と幸せの中で皆さんストレスなく働けるかというと、そんなことはありません。

むしろ、ただ業務をするだけではなく、「正しさに沿えているか」に思考のリソースの大部分が消費され、心までその組織に適応するように諸々の負の感情を抑えていくわけですから。

まあ、心身ともに鬼のようなストレスが溜まっていく。

でも、じゃあそれを組織に文句として言えるかというと言えません。

相談という形でも難しい。

だって、みんな笑顔で優しくて美しく、イキイキと働いているのですから。

ああ、私が正しく振る舞えてなく、私がつていけてないのが悪いんだ。

と、無理してその笑顔で優しく美しく、イキイキと働いているように頑張って振る舞います。(他の人もおんなじ感じに苦しんでいるとはいざ知らず)

むしろ、自分は我慢しているのに、そこから逸脱する振る舞いをしている人をみかけようものなら、なんとも言えない怒りが生じて、許せなくなるでしょう。

そこには、寛容という名の不寛容が充満しているのです。

《第四フェーズ:突然であり、予定されていたバーンアウトの発生》

さて、身体だけではなく、心まで正しくあろうと振る舞うとどうなるか。

抑圧に気づかないままに、心がショートするのです。

そこで許されている感情以外を排除するのですから。

大便を美しくないから我慢し続けた結果、尋常じゃない胃腸炎になるのと同様に、心も美しい感情以外を溜め込み続けて、どうしようもない痙攣を起こすのです。

そしてどうしようもなくなってやめる。

そして周りは思うのです。

「あんなに、笑顔で優しくイキイキと働いていたのに、どうしてやめるんだろう?」

でも、

「人には人の事情があるから、触れずに優しく送り出そう」

となって問題が顕在化しないままに去っていくことになります。

これが、「ポジティブでホスピタリティの溢れる”心優しい”組織で、なぜ心理的安全性が壊滅的になり、人が次々に辞めていくのか。」の全体像です。

こういうところで同じく正しい感情的な振る舞いをしようと思ってもできないので、色々やめてきたのですが。

転転したからわかるのですが、かなりの確率で「ソーシャル系」「自分らしく、ありのまマインドフル系」の組織はこの構造に十中八九ハマってます。

辞めるのではなく「なんとかしたい」と思う”心優しい”あなたへ

さて、構造だけ書いてもどうしようもないと思うので最後にいくつか処方箋を書いておきます。

『①規範を徹底的に言語化して定義する』

根本治療をしようと思うと、ここに尽きます。

「支え合う」とはどのような行為を指すか、そもそもなぜ「支え合う」が組織に必要なのか。

それはどのようなメリットをもたらしていて、デメリットをもたらしているのか。

徹底的に議論し、ぶつかって解を出す。そしてその解を定常的に崩して作り直す。

そのプロセスが、組織で現状の定義外の感情や振る舞いを許容する土壌をつくります。

『②”優しさ”の裏にある闇に向き合う』

優しさを全面に押し出す人は、基本過去になんらかの優しくなくて傷ついた経験を持ってます。

その傷つきゆえに、同じような構造パターンを持つ問題を見るとそれを許せなくなるし、何より自分が空洞化した”優しさ”を持てない瞬間を許容できなくなります。

なので、醜い部分を見ない限り、空洞化した意味にこだわり続けるでしょう。

根本治療をしようとするとするならばの話ですが。

むしろ嫌な部分を見なくて済むのですから、空洞化している方が扱いやすいのです。

『③”批判”をエンタメ化する』

最近作ろうとしている「グチカラ」もそうですが、その社会や組織の中で許容される形で”批判”をパッケージし直すという方法もあります。

ボードゲームなど、アイスブレイクのツールを活用して「文句言う」を合法化しましょう。

『④外部に介入してもらう』

ただ、上3つの方法はど正論ですがそれやれたら苦労はしないわけです。

ので、外部介入を依頼することをお勧めします。

(なんか宣伝みたいな感じで嫌ですが)

僕も一応、組織論や心理学、社会学、あらゆる知識と実践知ためているので、相談はタダなのでしてみてくださいな。

以上です。どうか、”心優しい”人々が社会や組織に潰されないことを祈っております。

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