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ハードボイルド書店員日記【154】

「ゆったり読める小説ない?」
祝日の午前中。小柄な老婦人がカウンターに寄り掛かる。常連だ。いつもはパズル誌を複数買っていく。「ジャンルのご希望は」「あまり長くなくて難しくないの」それはジャンルではない。毎度のことだ。袋の要不要を訊ねても「クレジット」と返される。要らないのかと思いきや、会計が済んでから「入れてくれないの?」と眉をひそめる。有料なので打ち直さないといけない。耳が遠いのだろう。いつだったか店長がひときわ大きな声で接客して「馬鹿にしてるの?」と三十分ほど詰められた。

「少々お待ちくださいませ」普段のトーンで伝え、レジを離れた。

「こちらはいかがでしょう?」ちくま文庫の吉田篤弘「つむじ風食堂の夜」を手渡す。「なんか暗い表紙ね」「夜が舞台の連作短編集なので」「だとしても」「納豆がネバネバするのと同じです。外国の友人は食べたら美味しいと喜んでくれました」くすくす笑う。「あなた冴えない顔してるけど頭は悪くないわね」おそらく周囲が考えるほどには彼女は衰えていない。聴力はともかく。

「雨も上がったし、昼から混むわよ」サービスカウンターの椅子へ移り、本をパラパラ捲っている。流れで付き合った。どうせ混雑したら時間になってもレジを抜けられなくなるのだ。「ありがたいことです」「そうでもないでしょ。薄利多売だから忙しさの割に儲けは乏しい。大変な仕事よね」「まあ」本屋に勤めたことがあるのだろうか。「主人が大きい書店で働いていたの」過去形の理由が気になる。定年以外の事情だと地雷を踏みかねないので黙っていた。

「あなた、なんで本屋さんを続けるの?」身を乗り出してきた。「なぜそんな」「だってきついのに儲からないでしょ。私みたいな面倒臭い客にも当たるし」自覚はあるらしい。「見た目からして正社員じゃないわよね」「ネクタイをしていないのはクールビズです。ただ社員じゃないのは仰る通り。私が書店で働く理由なら、その本の100ページと101ページに」こんなセリフが書かれている。

「歳くえば、それなりに人間、複雑になりますけど」
「でも、だからこそオノレを大切にするってこともあるんじゃないですかね」
「世界を知るほど、オノレが愛おしくなりましたよ。で、なんとかオノレをオノレのまま逃がしてやれないものかと」
「で、たどり着いたのがこの食堂だ」

顔を上げ、眼鏡の奥から険しい眼差しを向けてくる。「つまり自分を守るため?」「ですね。働きたくない。書店ならどうにか耐えられる」「そういうのを世間では甘えてるっていうのよ」「あるいは天職とも」堪えきれずに目尻が崩れる。「大したモンだわ。いつも孫みたいなヘルパーを泣かせてるのに」「私も若い頃はよく泣きました」「まさか」「現実のオノレと頭の中のそれとのギャップがすごかったので」老婦人はしばらく瞬きを繰り返し、おもむろに椅子を後ろへ引いた。「いただくわ」「ありがとうございます。袋は?」「クレジット」「会計を済ませてきます。どうぞこのまま」

彼女も現実のオノレを受け入れ難くて悩んでいるのかもしれない。その反動で周囲に意地悪をしてしまう。私もひどく疲れていたりシフトを守らない同僚がいたりすると顔や言葉に出る。お客さんの表情から察し、密かに反省する。どれだけキャリアを重ねても繰り返す。

意識していればコントロールできる時もある。マイペースでやっていこう。疲れた時はゆったりと小説でも。

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