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ハードボイルド書店員日記【137】

「『おもしろき こともなき世を おもしろく』ってこの人?」

衣替えに焦がれる平日。
扇風機が回れども脳はパープルヘイズ。
荷物の量は相変わらず。

手帳の返品やフェアの入れ替えで忙しない日々。棚卸しのXデーが迫ってきた。徐々に減らしていく。業者にカウントしてもらう場合でも一冊いくら。少ないに越したことはない。

最後のレジが終わる。あとは定時まで30分品出し。歴史や宗教、哲学の棚へ補充分を出す。小柄な老紳士に声を掛けられた。世界で最も有名なバンドが横断歩道を歩く写真がプリントされたTシャツを着込み、西郷隆盛のブックレットを手にしている。「いえ高杉晋作です」「ああそう」メガネの奥の窪みが明治維新のコーナーを追っている。彼に関する本は置いていない。

「高杉に興味がおありでしたら、司馬遼太郎の『世に棲む日日』がオススメです」「小説?」「全4巻で前半は吉田松陰、後半は高杉について」「いまある?」「はずです」

文春文庫の棚を見渡す。マスクの下で顎がモアイ化。

「申し訳ございません」「売り切れなら仕方ないね」通路を挟んだ向かい側に並ぶ新潮文庫を睨んでいる。「あなた詳しそうだから訊くんだけど、太宰治だったら何がいちばん好き?」「太宰ですか?」「ふと目に入ったから」「『黄金風景』ですね。あと『畜犬談』も」

ははは。白い眉の消えかかる下に穏やかな皺が浮かんでいる。

「面白い店員さんだね。そのふたつを挙げる人は初めてだ」おそらく「斜陽」や「人間失格」「走れメロス」「女生徒」「津軽」辺りを推す声が多いのだろう。「お客様はビートルズをお好きですか?」「見ての通り」「いちばん好きな曲を訊かれて『ヘイ・ジュード』や『イエスタデイ』と答える人は少ない気がしませんか?」首を傾げている。「たしかに」「ちなみにお客様は」「ぼくは『タックスマン』かな」「『リボルバー』の1曲目ですね」「あれジョージの作品だけど」「間奏のギターソロはポール」左の肩をポンッと叩かれる。喜んでもらえて光栄だ。

退勤が迫ってきた。「太宰の死因のひとつも税金?」「という説がありますね。こんなの払えないと大泣きしたとか」横目でレジ前の様子を窺う。長い列はできていない。品出しもほぼ終わっている。「ビートルズの時代の富裕層は95パーセントも課税されていたそうです」「なんで?」「社会保障の充実のために」「どこかの国の消費税みたいだね。そりゃあんな曲も作るか」笑うしかない。数分後なら全身全霊で賛同できる。

「せっかくだから太宰の文庫、1冊いただいていくよ」「ありがとうございます」「どれがいいかなあ」「こちらはいかがでしょうか」黒い背表紙の群れから「きりぎりす」を抜き出す。「目次を開いてみてください」「ああ」同意するように頷く。3番目に「黄金風景」4番目に「畜犬談」が収録されている。

「ところで『畜犬談』のどこが好きなの?」「67ページです」そこにはこんなことが書かれている。

「芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ」
「弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた」

「ひとつ質問」「承ります」「社会保障を充実させるための高い税率を皮肉ったビートルズは芸術家とは呼べない?」考える。「当時のイギリスについて詳しくないのでわかりません」ただ、と続ける。「もし彼らが現代の日本にいたら『タックスマン』ではなく『タックスヘイブン』という曲を歌っていた気がします」異論は認める。バイアスも否定しない。運命を儚む一ファンの妄想だ。

事務所へ戻り打刻。今日も長い鎖に繋がれて命を削った。

「『おもしろき こともなき世を おもしろく』ってお客さんに言われてた?」翌日以降に入る雑誌の数をパソコンで調べていた社員に呼び止められる。「ええ」「俺が思うに、あれを話のネタにしたりSNSのプロフィールに引用したりする人の文章や言動は大概面白くない」「なるほど」お先に失礼します。足早に離れた。冷静を装っている己に気づき、なかなかに抉られた現実を噛み締める。

面白くなくて、すみません。

なんて思わない。別にいいじゃないか。もちろん第三者の評価は大事。だが他者の目に囚われたら、自分が自分に対して面白くない。誰かが面白がってくれないよりも自分で己の作品を面白いと認められない方がずっと面白くない。そもそもあの老紳士は「面白いね」と笑ってくれたじゃないか。味方がひとりいる。なんという奇跡。身に余る僥倖だ。

「おもしろき こともなき世を おもしろく できない俺は ロックと太宰」信じれば生きていける。

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