マガジンのカバー画像

short story

15
短編小説
運営しているクリエイター

記事一覧

短編小説『オーロラの泡』

短編小説『オーロラの泡』

起床する。バッハの平均律クラヴィーア曲集が聴こえる。足音を立てないよう寒い廊下を歩き、ダイニングに向かう。ドアを開ける。母が気怠そうにトーストを囓りながら、朝刊を読んでいる。トースターにパンを挿れる。母の斜向かいの席に着く。少し離れたところにあるソファに凭れ、ウイスキーを飲みながら、アメリカの戦争映画を観る父の後ろ姿が目に入る。灰皿の上には、煙草の吸殻が山となり積まれている。幼少期の朝の風景。トー

もっとみる
短編小説『鬼が嗤う』

短編小説『鬼が嗤う』

日暮里駅で常磐線に乗り換え、南千住駅で下車。十八時。大学の友人と落ち合う。飲み屋へ向かう道中、まいばすけっとの前で煙草をふかしながらワンカップを飲んでいる中年の日雇い労働者たちが視界に入る。彼らはわれわれの存在に気づくや否や、会話を中断し、頭のてっぺんから足の先までじっとりと湿った目で眺め、薄ら笑いを浮かべた。そのうちの、ガードレールに凭れ掛かり泥酔している一人が、何か呻きながらわたしの足を触ろう

もっとみる
短編小説『ステュクス』

短編小説『ステュクス』

地下鉄の階段を上がりコンビニの前を通ると、またくだんの男がベンチに座り、煙草を吸っていた。一度は通り過ぎたが、思い直してすぐに引き返し、男に声を掛ける。細い白髪の掛かった耳には黒いイヤフォンが嵌め込まれており、わたしの声は聞こえていないらしく、彼の右膝を思い切り蹴り飛ばすと、はっとして顔を上げる。男は即座に下卑た笑みを浮かべ、イヤフォンを外しながら「久し振り」と言った。咄嗟に鞄で男の顔を殴打した。

もっとみる
短編小説『孔』

短編小説『孔』

よほど遅くまで残業しない限り、会社帰りに必ず会える猫が居る。猫はかわいい。大好きな生き物だ。一ヶ月ほど前から、その茶トラ猫の居る辺りに、べつの猫が居つくようになった。白と黒の毛が混じった、牛のような柄の猫。わたしはこれまで、一度も他の生き物と生活したことが無いので、生態というのか習性というのか、そういうものは分からないが、二匹はいつも半径二メートル以内に居るにも拘らず、じゃれ合うのはおろか、互いに

もっとみる
短編小説『悲劇の名称』

短編小説『悲劇の名称』

知らない友人の家へ遊びに行く。茶色く色褪せたコーデュロイのソファに座り、体と体の間に世界地図を広げ、この国に行くにはどれくらい時間が掛かるのだろうかというような話をする。トルコは十二時間くらい掛かると思うと友人が言う。わたしは同意して頷く。金色の包み紙に入った、手のひらにすっぽり収まるくらいの、丸い、硬貨のようなチョコレートを一枚ずつ食べる。包み紙の裏に、彼女は自分の名前を書きつけてわたしに見せる

もっとみる
短編小説『ガラス、火、立体駐車場』

短編小説『ガラス、火、立体駐車場』

五年前まで湯島に住んでいた。その日も確か、このくらいの時季だったと思う。遅めの夕食を済ませ、上野方面へ向かい散歩をしていたところ、一文字だけしか発光していないネオンの看板があるのを見掛けた。遅いといはいえ深夜にはまだ至っておらず、それでも住宅地の中に営業している店があるのは珍しかった。入り口の戸はガラス製で中が見えたので、何となく立ち止まって様子を窺った。店内は暗くてよく見えないが、バーカウンター

もっとみる
短編小説『永遠的でない愛』

短編小説『永遠的でない愛』

先週から、体調を崩し会社を休んでいる。二日間高熱に魘され、一昨日から微熱が続いているという状態。夏風邪というのは、これまで罹った事が無かった。病院に行き医者に何やら話をされたが、最近、自宅の近くでやたらに蠅の飛んでいる一帯があるのを思い出し、ほとんど聞いていなかった。
体が熱いのか、気温が高いのかがもはや分からない。吸ってから吐く。そんなんだ。退屈が終わったと思ったら、また次の退屈がやって来る。読

もっとみる
短編小説『The Ghost Has No Home』

短編小説『The Ghost Has No Home』

肩を叩かれ目を覚ました。7月といってもまだ朝晩は冷える。思わず身震いする。外、アスファルトの地面に座りながら眠っていたようで、尻が冷たい。灰色っぽいスーツを着た男が、わたしを見下ろして何か言ったが、頭がぼんやりして聞き取れない。そのまま十秒、もしくはそれより長い時間見つめ合っていたが、男はわたしが何の反応も示さないからか、小さく舌打ちをして去って行った。
その後もしばらくその体勢で地面に座っていた

もっとみる
短編小説『琺瑯』

短編小説『琺瑯』

会社を出て駅までの道を歩いていると、左の道から三十代半ばくらいの女が出て来て私の前を歩き始めた。長いスカートの裾から細い足首が見え、左右の脚が前後するたびに、周囲がちかちかと発光している。よく見ると、小さな蝶が一匹ずつ留まっていた。蝶は女の歩調とは無関係に、羽を閉じたり開いたりしている。自転車屋の前を通り過ぎる頃にはその光の強度は増し、時折黄色い眼鏡や緑色のカニ、水色の枝、赤いアルファベットのNと

もっとみる
短編小説『セイレーン』

短編小説『セイレーン』

単純な会話。単純な構成の複雑な含みを持った音楽。頭がほとんど使い物にならなくなっているのが分かる。正午と、夕方の四時、夜の六時半の三回、「薬を飲む」というリマインドの通知がわたしのiPhoneに届く。届けられる。毎日。何故なら毎日飲まないといけない薬があるからだ。正しいことが分かる。正しい目で見ている。疑いの目で見られている。罪人を裁くような目で。わたしはとっくにキチガイであると断罪され、毎日仕事

もっとみる
短編小説『ジウェセック』

短編小説『ジウェセック』

世界中に散らばる、いくつかの特定の条件を満たした空洞を一箇所に集め、圧縮したときに発せられる音が聞こえる。目を閉じて心の中を探索しようとするが、緑色の自警団に「これ以上深く潜ってはいけない」と止められる。わたしは、内側では無く外側を目指さなくてはならないようだ。しかし外側を目指すことはひどく困難を伴った。誰かが笑っているのが聞こえた。未知の不安よりも見知った不安のほうが良いとすら思えるほど、全身が

もっとみる
短編小説『ソルシコスの夜』

短編小説『ソルシコスの夜』

仕事を終え、いつものように神保町で降り喫茶店Mに入る。ここはいつも適度に人が居て、適度に話し声が聞こえ、適度に暗い。焼酎をコーヒーで割った酒を飲みながら煙草に火を点け、本を開き、一番新しいセックスのことを思い出していた。文字の一つ一つが過去を刺激するように出来ていて、言いかけてはやめたいくつもの言葉が、浮かんでは弾けて消えていくのが見えた。もしかしたら有効かも知れなかった言葉も、その時の私は言いか

もっとみる
短編小説『エル』

短編小説『エル』

確かその時スプーンを落としたんだったと思う。夏に父方の祖父母の家に行くと、決まって青い容器に入ったあまり甘くないバニラ味のアイスクリームが出て来た。偏食だったからなのか飽きたからなのかは定かで無いが、好んで食べた記憶が無い。
私の対面にはいつも祖父が座っていた。祖父の後ろに大きな窓があり、逆光のせいで記憶の中の彼の顔はいつも翳っている。祖父は若い時分、仕立て屋だったそうだが、きちんと働いていたよう

もっとみる
短編小説『魂の蔓』

短編小説『魂の蔓』

彼女を駄目にしてしまったのは自分だ。
いつもの様に、幻覚剤の齎す多幸感に浸っていると、突然キッチンから叫び声が聞こえて来た。気持ちは急いても体が動かず、緩慢な歩みでキッチンに向かう。彼女──Mが包丁で自分の左腕を切り落とそうとしていた。私は慌てて彼女の右腕を引き離し、反動で二人とも後ろに大きく倒れた。包丁は床に転がり落ち、泣き叫び暴れるMを必死で押さえつけた。間も無くMは気を失った。床には血溜まり

もっとみる