マガジンのカバー画像

ローマの日々 [Daily Romans]

36
ローマ人への手紙を日々少しずつ、ゆっくり味わい、瞑想する旅をします。
運営しているクリエイター

記事一覧

28.ローマ2:2 神のさばきと刑罰を意識して

28.ローマ2:2 神のさばきと刑罰を意識して

互いにさばき合っている人間の上には、もちろん神のさばきがあります。"私たちは知っている "とパウロが言う通りです。では、互いに裁き合う者たちは、神が天から自分たちを見下ろしてさばいていることを知っているのでしょうか。

たとえ口では神を認めていても、無意識にさばき合うことが習慣になされているのであれば、上から裁き、非難できる全能の神である神を認めていないことは明らかなのです。

パウロはローマの聖

もっとみる
27.ローマ2:1 "互いにさばき合う"という人間の性質

27.ローマ2:1 "互いにさばき合う"という人間の性質

もし二人の泥棒が互いに悪人呼ばわりして喧嘩していたら、滑稽です。でもそれは自分を悪人だと知られないようにするための演技であるかもしれません。

すべての罪人はそのように仮面を被っている、とパウロは言っているようです。けれども、誰一人として、仮面を被っているからと神のさばきを逃れられることはできません。

しばしば、私たちは他の人よりも良い人間であると認められようと努めているものです。

一体何が目

もっとみる
(3)ローマ2:1-29 神のさばきと下される刑

(3)ローマ2:1-29 神のさばきと下される刑

人間どうしでなされる罪の行為について教える宗教、道徳規範は、ややもすれば互いに批判し合うための道具に早変わりしてしまいます。自分が変わるべきところを、相手のあら捜しをし、相手に変化を求めるような人間関係に陥ってしまうのです。人の基準ではなく、神の基準があることを知ることで、誰がより正しいかを競うのではない、いつくしみ深い神の判断を仰ぐ姿勢へと変えられるのでしょう。

27. "互いにさばき合う"と

もっとみる
26.ローマ1:30-32 死に値する行為

26.ローマ1:30-32 死に値する行為

神の目には、どのような悪行が死に値すると映るのでしょうか。

パウロが記しているこれらのさまざまな「悪行」は、神に反抗した心から生じるもの。その「心」が神に反抗していることは、これらの「悪行」とされる事柄から明らかなのです。

これらは、決して神のいのちにふさわしいものではなく、死に値するのです。

私たちは、日々の生活の中で、言葉や行動において、常に神の御心を求め、神と心を一つにしているでしょう

もっとみる
25.ローマ1:28-29 呪われている思い、してはならない事々

25.ローマ1:28-29 呪われている思い、してはならない事々

神の律法は、殺人、姦淫、窃盗などの悪行を禁じています。しかし、罪の問題はもっと深く、罪深い人間の心から生じているのです。人間は「神を知ることに価値を認めなかった」からです。それが「罪」の本質なのです。

私の人生を支配するにふさわしいのは誰? 私の人生を支配するのは私自身でしょう?

でも本当は、私たちは神の被造物であり、この神をパートナーとしてともに生きるべき存在なのです。それを、自分の意志が神

もっとみる
24.ローマ1:25-27 本来の神の愛

24.ローマ1:25-27 本来の神の愛

人間が悔い改めない限り、天から啓示される神の怒りはこの世に増大するようです。

神は家庭が壊れるがままに任せ、人間が夫婦関係の重要性に気づかないままに、欲望を追い求め続けるに任せてしまうこともあるのです。

創造主は永遠に賛美されるべきなのに、この世の人間の日常生活では忘れられてしまう現実があります。

夫婦の間でも、お互いに「ほめる」どころか、お互いを責め合う事態に陥ることもあるのと同じかもしれ

もっとみる
23.ローマ1:23-25 神は人間を心の欲望に任せた

23.ローマ1:23-25 神は人間を心の欲望に任せた

神の怒りが天から現れている。その怒りは、人間が朽ちない神の栄光を、朽ちた人間の姿、すなわち人間自身の欲望に置き換えたからです。

これが人間の罪です。

そして、神は人間に対して次のように行動します:神は、彼らの心の欲望を欺くために彼らを送り込んだ。まるで、間違ったことをすると、その結果で痛い目に遭うまで、そのことに執着する幼い子供に対するように。

人間の問題の核にあるものは、神の力を認めない自

もっとみる
(2) ローマ1:24-32 してはならないことをするに任せた

(2) ローマ1:24-32 してはならないことをするに任せた

神を無視して自分勝手に生きる人間に対する神の怒りは、人間の状態そのものに表されているのでした。

神が、人間をなすがままに任せ、自分の行っていることの実を刈り取ることで、罪を自覚させるためです。

ユダヤ人には神の律法が与えられて、それによって神に対する罪を知ることができたのですが、その律法を知らない異邦人が罪を自覚するには、罪の行為の現実を実感しなければならなかったのでした。

23.神は人間を

もっとみる
22.ローマ1:22-23 神の栄光を人間の欲望に変える

22.ローマ1:22-23 神の栄光を人間の欲望に変える

偶像とは、人間の欲望を表したものです。さまざまな偶「像」を崇めることは、人間自身の欲望を崇めることなのだ、とパウロは言います。

人間は、神の栄光を、人間自身の考えの結果に置き換えてしまったのでした。

言い換えると、人間は自分の考えだけを崇める者となった、ということです。意識せず、自分を神のようなものとしてしまっているのです。(ピリピ3:19)

この世の目に見える物事については、人間はますま

もっとみる
21.ローマ1:21 神を神としてあがめない

21.ローマ1:21 神を神としてあがめない

万物は神によって創造され、万物は神のもの。

もちろん私たち人間も、のはずです。ところが人間は自分勝手な思いのままに、自分を、そして万物を使ってしまっています。

「このからだは自分のものだ。他の誰も、自分の考えや計画に干渉する権利などない。私が自分ですべきことを、自分のしたいことのように決めていくのだ。もしそれを妨げようとするものがいるなら、たとえそれが神であろうとも、それに対して怒りを向けるの

もっとみる
20.ローマ1:19-20 神の義が人間に明らかにされている

20.ローマ1:19-20 神の義が人間に明らかにされている

神が人間の不敬虔と不義に対して怒るのは当然のことでしょうか?

もし人間が神を全く知らず、そのために無視し続けているだけだとしたら、神の怒りは当然のこととは言えないように思えます。

けれども、人間は神についての知識は持っているはずなのです。というのも、神ご自身がこの世を創造なさった時以来、さまざまな働きを通して人間にご自身を示してきていたからです。

その証拠に、どんな民族にも必ず宗教があります

もっとみる
19.ローマ1:18 神の怒りが啓示されている

19.ローマ1:18 神の怒りが啓示されている

神の義は福音に啓示されているのに対して、神の怒りは天から啓示されている、とパウロは言います。

神は実に、その愛のうちに、人間と一つになることを願っているのですが、人間の不敬虔と不義の問題のゆえに、そのままでは決して一つにはなれず、人間の祈りもかなえられない状態に陥っているのです。

しばしば聞く言葉に、「神が怒っている」というのがあります。人間は、なぜか神の怒りを知っているのです。

それが、神

もっとみる
(1)  神の怒り

(1) 神の怒り

ローマ人への手紙 1章 18-23節

天から啓示されているとパウロが言う神の怒りについて。

自分が罪人だなどとは思えない私たちに、人間の現状を直視させてくれる言葉が続きます。早くやり過ごしたいような気にさせられる個所ですが、自分の本当の姿をしっかり見つめなおす機会を与えてくれる箇所でもあるのです。

でも、さまざまな人間の欲から生じる罪の行為がなぜ人間自身でとどめられないのか、その根源にあるの

もっとみる
II-1 すべての人間は罪人

II-1 すべての人間は罪人

ローマ人への手紙 1章18節-3章20節

ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、キリストの福音が必要でした。

世界中のどのような民族でもそれぞれに宗教があり、道徳があって、社会が保たれているのですが、それで生活の中になにも問題が起こらないのなら福音は必要なかったでしょう。

人が人に対して犯す罪の根源に神へに対して犯している罪があることからパウロは語り始めます。

そしてどのような道徳規定が存在して

もっとみる