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【分野別音楽史】#05-4「ラテン音楽史」(ブラジル編)

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)
#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)
#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)

今回はブラジル編ですが、これまで触れてきたアルゼンチンやキューバなどのスペイン語圏のお話とは異なり、ブラジルはポルトガルの支配を受けていたポルトガル語圏です。ブラジリアン音楽もまたこれまでの系譜と違い、スペイン系キューバン音楽(サルサやマンボ)とは異なるため、ラテン音楽と呼ぶには異論も多い分野です。

このあたりをよく知らないままだと、ブラジルのサンバもキューバのマンボもひとまとまりに「ラテン音楽」と見なしてしまいがちですが、ここまでの記事とも比べながら、その音楽の特徴の違いを感じていただければと思います。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。



◉ブラジルの歴史

他の中南米地域と同じく、ブラジルも大航海時代にヨーロッパに「発見」され、侵略されました。1500年にペトロ・アルヴァレス・カブラルによって発見されたブラジルは、1501年にポルトガルの植民地に。当初は「価値のない土地」と判断されあまり人も来ませんでしたが、やがて「さとうきびが育ちやすい土壌である」と判明し、16世紀の中頃から大量のさとうきびがポルトガル人によって栽培されるようになります。

たくさんのポルトガル人が訪れるようになり、原住民は虐殺や伝染病によって一気に人口を減らし、代わりに労働力としてアフリカから大量の黒人奴隷が動員された、というのも南北アメリカに共通する、闇深い歴史の流れです。

1822年に独立を宣言、1850年に奴隷貿易を廃止する法律を作られますが、その仕組みに多くの問題があり、1880年代にようやく奴隷解放の動きが進むなど、脱奴隷制度は徐々に進んでいきます。奴隷制から解放された黒人は逆に働き口が無くなるなどの問題点もありました。その後軍事クーデターを経て1889年に共和政へと移行します。こうして、ポルトガル人と黒人を中心とした「多民族国家ブラジル」が成立していきます。



◉「ショーロ」

さて、ブラジルでは19世紀にヨーロッパ移民が持ち込んだ当時流行のポルカが基本となり、1870年頃にリオの酒場で「ショーロ」という器楽音楽が確立されます。ショーロは白人系社会で生まれた都市大衆音楽で、独自の即興音楽的要素を持つポルカの一種・ポルカの再解釈だとされます。

フルート奏者・作曲家のジョアキン・カラード(Joaquim Antônio da Silva Calado)(1848~1880)が第一人者です。


◆ヨーロッパのポルカ


ジョアキン・カラードのショーロ

また、彼のバンドでは、フルート、2 本のギター、1 本のカバキーニョ(ウクレレに似た弦楽器)を使用し、即興演奏を交えて演奏されたといいます。

ショーロのスタイルは、カラードの弟子である女性ピアニストのシキーニャ・ゴンザーガ(1847~1935)やエルネスト・ナザレー(1863~1934)に引き継がれます。

ゴンザーガは、ショーロの最初のピアニストとして知られています。『Atraente』をはじめとしてヒット曲を連発し、人気作曲家となりました。戯曲やオペレッタなどクラシカルな演劇作品も作曲しており(『Forrobodó』『Jurití』など)、それらに当時のブラジルの大衆文化の要素を用いていたため、大成功を収めまたのでした。さらに、初のカーニバル用のマーチ『Ó Abre Alas(1899)』の作者としても知られています。

エルネスト・ナザレーは、ショーロの作曲家として知られながら、同時に「ブラジリアンタンゴ」と呼ばれるスタイルであるともされました。国内の民族音楽に影響されたピアノ曲を量産した姿勢から、「ブラジルのショパン」と呼ばれています。実際にナザレーはショパンに影響されており、クラシックのロマン派的な豊かな和声法を用いた作風が影響し、ブラジル音楽のハーモニーの特徴ともなっていきます。

時代が違えばクラシック作曲家として評価されていた可能性もあるブラジル音楽の作曲家ですが、残念ながらこの時期の正統な「芸術音楽界」は前衛主義の道を進んでしまい、ロマン派的な和声や大衆音楽的な要素は全く評価されませんでした。そのため、このような音楽は、ポピュラー音楽のレパートリーとして残っていくことになったのです。

ともあれ、1880 年代~1920 年代にかけて、労働者の友人どおしのパーティーやパブなどの酒場でゴンザガやナザレーの楽曲が多く演奏され、楽譜も多く出版されました。さらに、蓄音機が登場したこの時期、1910年代までに既にブラジルの多くのレコードがショーロの楽曲を録音していました。

やがて1920年代にはラジオ放送も始まり、1930年代にかけてさらにショーロが広まり、黄金期となっていきます。

この時期活躍した重要人物が、ピシンギーニャ(1897~1973)です。彼は
19世紀末の伝統的なショーロの近代的なハーモニーと、黒人系のアフロブラジリアンのリズムを両方取り入れて発展させた人物として知られており、「ブラジルポピュラー音楽の父」と呼ばれています。1928年に作曲した「カリニョーゾ(Carinhoso)」はブラジルの第二の国歌と言われるほど愛されたほか、「1X0(Um a Zero)」などの代表曲も生み出しました。彼の誕生日の4月23日が、2001年より「ショーロの日」として制定されたほどです。

他にも、ショーロでもっとも知られている曲とされる『チコチコ(Tico Tico no Fuba)』を作曲したゼキーニャ・ジ・アブレウ(1880~1935)や、エイトル・ヴィラ=ロボス(1887~1959)、ジャコー・ド・バンドリン(1918~1969)、ヴァルジール・アゼヴェード(1923~1980)らも活躍し、ショーロは黄金期を迎えていきました。




◉「サンバ」

19世紀後半、白人都市社会ではショーロが誕生した一方で、ブラジルでは、黒人奴隷が多く投入された歴史のあるバイーア地方にて、複数の打楽器によるバトゥカーダ(バトゥーキ)という音楽が形成されていました。

19世紀末頃にそのリズムがリオにも持ち込まれ、20世紀初頭にサンバというジャンルが成立します。

都市のショーロに対して、田舎風のリズム・踊りのことを意味していたサンバですが、黒人労働者たちがリオのカーニバルに参加するようになり、輪舞や行列の風習などを持ち込んだところから人気となります。もともとカーニバルはキリスト教の風習で、ヨーロッパ系の裕福なブラジル人たちが始めた祭りでした。当初はカーニバルの音楽もポルカやマーチのような音楽が中心でしたが、バトゥカーダやサンバのリズムが、ショーロやハバネラ、ポルカなどと融合することによって、音楽としての「サンバ」が誕生します。

1910年代前半には、最初期のサンバ音源とみられるいくつかのレコードが発売されています。『Em Casa da Baiana(1911)』では器楽作品のスタイルを聴くことができ、『Viola Esta Magoada(1913)』では男性歌手バイアーノと女性歌手ジュリア・マルチンスによるサンバ歌唱のレコードも発売されています。

しかし、一般的に最古のサンバレコードとされているのは、1916年作曲、1917年にレコード発売された『電話で(Pelo Telefone)』という曲です。

ドンガ(本名:Ernesto Joaquim Maria dos Santos)(1890-1974)と、マウロ・デ・アルメイダ(愛称:Peru dos Pés Frios)(1882-1956)の2人による作曲で、歌唱は同じくバイアーノジュリア・マルチンスによるものです。

これがドンガの申請によって国立図書館に「公式のサンバ」として登録されたことで、現在でも『電話で(Pelo Telefone)』が最古のサンバとして認知されていますが、先例のレコードの存在から研究者には疑問視されています。

ともかく、この曲はカーニバルでも大ヒットとなり、広まっていきました。これ以降、パレードのヒット曲はほとんどがサンバになったといいます。1916年はサンバ誕生の年とされ、2016年にはサンバ100周年を祝われたりしました。

こうして黎明期の「田舎風サンバ」では簡単な打楽器アンサンブルだったものが、1920年代にはサンバ独自のパーカッション群を携えた「カーニバルサンバ」としてスタイルが確立されていきます。

1920年代、ブラジルで文化的なナショナリズムが勃興し、社会上層のエリートや文化人たちが自国の大衆文化を重視する傾向が強まって、それまで地方や社会下層で演奏されていた音楽が社会全体にも受け入れられるようになったのです。

さらに、「歌謡サンバ(samba canção)」などの社交ダンス化したサンバがダンスホールで踊られるようになります。社交ダンススタイルの歌謡サンバではオーケストラが導入されるなどして、サンバのスタイルは多様化していきました。

スター歌手としてカルメン・ミランダマリオ・ヘイス、チコ・ビオラ(フランシスコ・アルベス)などが登場し、重要な作曲家としてもノエル・ホーザ、アリ・バホーゾ、カルトーラ、ネルソン・カバキーニョ、イズマエル・シルヴァ、ブラギーニャ、アタウルフォ・アウヴェスといった新世代が多く登場して活躍しました。

一気に普及したレコード産業やラジオによってリオデジャネイロ以外にもサンバが伝播し、1930年代にはサンバは他の音楽を抑えて国民音楽としての地位を確立します。これに伴い、対外的にもサンバがブラジルを代表する音楽と見なされるようになりました。

1930年代にリオ市がオーガナイズして、各町内会にあるサンバの団体をパレードさせて、コンテストにしようという形になり、カーニバルのパレードとサンバがしっかりと結びついてブラジル文化に根付いたのでした。



◉「ボサノバ」

戦後になると、カーニバルで演奏されていたサンバは中流階級の若者にはウケが悪くなり、アメリカのジャズやポピュラーソングが支持されるようになっていました。1950年代、サンバは上の世代の懐メロのような古いものになってしまったのです。

そんな中で、リオデジャネイロのコパカバーナやイパネマといった海岸地区に住む白人中産階級の学生やミュージシャンたちによって、サンバに対抗するようにボサノバというスタイルが新たに誕生します。

サンバの作曲時に、大きい音が出せないアパートで、優しくギターを鳴らしながら小さな声で歌ったことでこのようなスタイルが生まれたと言われています。これがサンバの洗練化と捉えられ、特にアントニオ・カルロス・ジョビンジョアン・ジルベルトによる楽曲が大ヒットとなりました。

カーニバルのように大騒ぎするのではなく、クールで静かなスタイルがこの世代のトレンドとなったのです。

その後、コパカバーナ地区のバーやクラブで発展し、セルジオ・メンデスバーデン・パウエルアイアート・モレイラといった若手ミュージシャンによって盛んになりました。

1960年代をピークとして欧米でも支持を得ます。ウエストコーストジャズのサックス奏者として活躍していたスタン・ゲッツが1960年代に入り積極的にボサノバを取り入れ始めたのです。そして、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、アストラッド・ジルベルトといったボサノバミュージシャンを迎えて制作され1964年に発表された「ゲッツ/ジルベルト」というアルバムが大成功し、アメリカにボサノバブームを巻き起こしたのでした。

このように、ボサノバはモダンジャズと密接に関連した音楽となったのですが、その後ブラジルでは軍事政権がスタートし、退潮していってしまいました。

現在ではブラジル本国ではこのような音楽は古いものとして扱われるといいます。

ブラジリアン音楽が浸透し、一定のファン・リスナーが存在している日本などのほうがむしろ、ボサノバの貴重な音源が見つかりやすいという状況まで起きているようです。



◉「MPB」

ボサノバが最盛期を迎えた1960年代のブラジルでは、テレビが普及していました。1960年代後半以降、テレビ局がポピュラー・ソング・コンテストのようなものを始め、フォークソングやロック、ファンク、ソウルミュージックなどの要素を持ちながら、これまでのブラジル伝統音楽のフレイバーも加味された「MPB(エミ・ペー・ベー)」という音楽が発生しました。

これは「Música Popular Brasileira」の頭文字を採ったもので、文字通りの意味では“ブラジルのポピュラー音楽”ということになりますが、さまざまな音楽的要素が詰め込まれながらブラジル独自の大衆音楽ジャンルとなっていったのでした。

エリス・レジーナ、シコ・ブアルキ、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ミルトン・ナシメント、ガル・コスタなどといった人々がテレビ局主催のソング・フェスティバルに出場し、入賞するなどして、一般的な認知を得るようになっていき、彼らがのちにMPBと呼ばれる音楽のパイオニアだとされています。

さらに、60年代後半、ロックンロールに影響を受けたポップスの流行に反発した人々は「トロピカリア」と呼ばれる芸術運動を起こし、伝統的なブラジル音楽へのリスペクトとMPBのさらなる進化を促進していきました。こうして、70年代以降、MPBの最盛期を迎えていきます。

70年代以降は北米やヨーロッパでもブラジル音楽の魅力が広く知られるようになり、モダンジャズ期が終わり、フュージョン期となっていたジャズ界にもブラジリアンの要素は取り入れられるようになりました。

80年代にはMPBの第二世代にあたるイヴァン・リンスジャヴァンといったアーティストが活躍し、MPBの最盛期となりました。

さらに、その次の世代としては、マリーザ・モンチ、アドリアーナ・カルカニョットといったアーティストが登場。

このように、ショーロやボサノバ、ジャズ・フュージョンなどとの関連も伺わせる独特のハーモニー感覚を伴いながら、ブラジル独自のポップミュージックが発達していったのでした。



◉新たなブラジリアンポップの台頭

80年代後半、アメリカ生まれ・ブラジル育ちのミュージシャン、アート・リンゼイがプロデューサーとしてカエターノ・ヴェローゾガル・コスタマリーザ・モンチに携わるようになります。彼は、ロック、R&B、ヒップホップの要素を伴って音楽をプロデュースし、それまでどちらかというとジャズ寄りの文脈で捉えられていたブラジリアン音楽が、また新たな段階へと進んでいくことになりました。

1990年代後半になると、カルリーニョス・ブラウン、レニーニ&スザーノ、シコ・サイエンス、プラネット・ヘンプなどが活躍し、ブラジルの伝統的な音楽と、ロックやファンクやヒップホップなどをミックスした新たなミクスチャー・ミュージックとして確立しました。

さらに、この時期のヨーロッパではクラブミュージックが発達しており、その文脈においてブラジリアン音楽が注目されるようにもなりました。ジャイルス・ピーターソン、ポール・ブラッドショウといったロンドンのDJの影響が大きいとされています。

21世紀に入り、世界的にハウスミュージックの発達とEDMのブームが発生し、クラブミュージックはポピュラー音楽の中で大きな影響力を持つようになりましたが、その中の1ジャンルとして、ブラジリアン音楽も重要な要素となっています。



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