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私は読書感想文を書くのが苦手だった

  なんにつけ先生に提出しなければいけないような感想文というのは、学校から課される一種のハラスメントだと思う。あれは狭い教室という逃げ場のない空間で、自分の日記(のようなもの)を公の場に公開する罰ゲームである。私が思うに読書感想文を教育的に素晴らしいと賞賛するような人間は、ひとに「なんか面白いことやってよ」というような話の振り方をできる残酷非道な人間か、頭がお花畑な性善説•信じ人間だけである。


  こういうヘイトに満ちた偏見を撒き散らすと、そんなことはない、そもそもお前は全世界に日記を公開しているではないかと思われるかもしれない。確かにそうなのだが、私にとって日記を公開する意味というのは気心の知れた友達と遊ぶのと同じことなのである。私のnoteは友達づくり活動の一環なのであり、要はプライベートなことなのだ。ここでは私がプリンに醤油を垂らして食おうが、そんなのウニじゃない、やら、味覚がイカれている、やら指摘する人間はいない。(もちろん友達が面白がってそう指摘してくれるのは大歓迎である。)これはモノの例えだが、とにかく私は仲良くもないクラスメイトに自分の日記を読まれるという体験に近い恥辱を味わせる、読書感想文という制度が心の底から嫌いだった。


  noteであれば私が書いたことに興味のない人間は、ネットの駄文など見向きもせずにスルーするだろう。そもそも派手な娯楽を好むタイプの人間は動画や音楽の方に流れていくから、インターネットの海の中でもnoteには比較的落ち着いた人間が宿りやすい。だから私がnoteに日記を公開すれば、結果として周囲には感性の合う仲間だけが残るという寸法なのである。


  しかしわたしがいくらグチグチと文句を垂れたところで、毎年夏になれば読書感想文という苦行が降りかかってくる。私は毎年うんうんと唸って、どれだけ課題図書のストーリーで原稿用紙を埋められるかの瀬戸際チャレンジを開催していた。感想文を読む人間にどれだけ自分の感情を読み取られないような文章を書けるか、考えていると段々冷や汗が垂れてお腹が痛くなってくる。小学生の私はこのようなハラスメントを行う学校制度に断固抗議し、ストライキを起こさねばならないとまで考えたものだった。


  今の小学生はインターネットが発達したから、多分どこかの文章をパクってバレない程度に文末などを調整すればこの難関を乗り切ることができるだろう。その点において文明は力ない小中高生に救いの手を差し伸べていると言っても過言ではない。ビバ、スマートフォン。8月半ばを過ぎて、そろそろ学校の始まる気配が漂い出すあの頃、さんざん頭を悩ませながら二百字詰めの原稿用紙に向かい合っていたあの頃の私に教えてあげたい。未来はそんなに悪くない、人類の集合知はひ弱な1学生を救ってあげられているよ、と。

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