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目の前に拝むものがあるのに 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む48
いくつもの天皇像がある
つまるところ平野啓一郎の『三島由紀夫論』の最大の問題は、「天皇」の複雑さを捉えきれていない点にあるのではなかろうか。それはまず三島由紀夫の「天皇」、「天皇観」と言ってもいいし、現実の天皇、或いは天皇制と言ってもいい。
この飯沼勲のような純粋な表現はある意味では正しい。しかしその正しさは何故飯沼勲は宮城の前で腹を切りたいとは願わなかったのかという疑問を無理やり払
前は違ったのだ 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか⑤
昨日は牧野の設定崩しに振り回された。
ちょんちょん軽めの足払いでけん制しておいて、掴んだ奥襟と右手の袖を左右に振り回し、一気に担ぎ上げて足で跳ね上げるような、軽快なサンボの投げだった。モンゴル相撲ではこうはいかない。
しかし牧野は相手をひっくり返したところでとどめを刺しに来る。
頭がおかしい兄には、妹の結婚を知らせない方がいいという配慮があったのか。しかし何のために?
これ以上心配
「も」じゃない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む47
平野啓一郎は三島由紀夫の辞世の句の説明に続いてこう述べる。「28 自刃」においてのことである。普通に読めばこの「も」は三島由紀夫にかかる。三島由紀夫にとっても、重要なのはただ死ぬことだけである? ならば顔の分からない天皇など三島由紀夫にとってはミリンダ王や阿頼耶識のようなものであったと平野啓一郎は気がついていたのであろうか。
この「28 自刃」に関しては既に指摘した通り平野の自刃の定義と三島
まだ兄弟がいるかもしれない 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか④
昨日は、凸面鏡で親友の姿が歪み「鼻でか」が現れたと書いた。それにしても日本アイスクリーム協会の野郎、いい加減なことをしやがって……。
それにしても牧野信一の描く人物の情緒不安定さには呆れてしまう。松枝侯爵は、遺族手当がほしいからと父親から息子を戦死させてもらいたいという手紙が届いたという話を聞いて泣いてしまう。貰い泣きだった。
例えば前頭前野の働きが鈍ると自分の感情がコントロールできなく
眼ざしの頭もいらない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む46
見出し画像は大阪毎日新聞社 編大阪毎日新聞社 1921年刊行の「皇太子殿下御渡欧記念写真帖 第4巻」の中にある東宮殿下(後の昭和天皇)の写真である。国立国会図書館デジタルライブラリーで確認できる。
すでにいくつか並べてみた通り、皇太子時代の裕仁殿下の顔には何種類かのパターンが見られる。
気になるのは写真帳に後ろ向きや斜め後ろから撮影されたものが多く、顔が一切わからないものが少なくないとい
予測できたはずなのに 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか③
結局人間の感情などというものは言葉で捉えたつもりでもそこから少しずつずれているものだ。純粋な怒り、純粋な喜びというものはなかなか得られない。昨日私はサンシャイン60の噴水広場に行って、無料配布のアイスクリームを貰おうとした。木曜日の午後一時から配布予定、行ってみると物凄い人数が集まっていて、係員が「今並んでも並んだとはみなさない。一時十分から並び直しを開始する」と訳の分からないことを叫んでいた。
もっとみる何故神仏混交なのか 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む45
何故仏教なのか
転生は仏教独特の世界観というわけではない。しかし『豊饒の海』が『堤中納言物語』に材を得た輪廻転生の物語であると言われてみれば仏教的な話題が繰り返し現れることにさしたる不自然さもないように思われる。それでも敢えてそこに引っかかってみると、そもそも三島由紀夫は何故阿頼耶識に取りつかれたような演技を大げさにして見せたのか、ということが気になってくる。
三輪山に鎮まるという大物主大
グワーンと鐘が鳴る 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか②
三島由紀夫はそんなことを書いてみる。生殖は人間の生々しい一面であり、生物の本質だからだ。ならば牧野信一が只管恋に囚われているのも当然と言えば当然のことなのかもしれない。
これは一年前の別れ話の回顧だろうか。『ランプの明滅』の「秀ちゃん」は照子から茶目さんといわれていた。どうもこの「純ちゃん」も茶目である。
鐘はチャペルのウエディングベルではなく、普通の寺の鐘だろう。ショックを鐘で表現した
小市民などいない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む44
現実の歴史の話をしてみれば『春の雪』の時代設定の当時、つまり大正元年から三年にかけての宮家は伯爵家から嫁を迎えることもあり、反対に宮家の王女が侯爵家に御降嫁(ごこうか)することもあった。伯爵侯爵と言っても家柄はまちまちであり、すべての侯爵家にその資格があるわけではないが、例えば松枝清顕が宮家の王女を迎える可能性も全くないわけではなかったという理屈にはなる。
かといって天皇が清顕にとって到達可
十五秒足りない 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか①
この作は大正八年四月のものとされているので、『ランプの明滅』よりも先に書かれた可能性が高い。
そしていきなりのホモフォビアのような、ホモのような話である。
しかし「僕が若し女ならば」と書いてあるので、ホモではないな。
気持ちの悪いと言いながら笑っているからホモフォビアでもない。
親友の「生命を棄てゝも君に恋をして見せるよ」という言葉は『春の雪』の最後で本多の手を握る松枝清顕よりも
その時三島の〈天皇〉はいない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む43
平野啓一郎の『三島由紀夫論』は小林秀雄賞を受賞している。このことはあの國分功一郎までもが三島由紀夫作品をほとんど読んでいないか、すっかり内容を忘れてしまっているという残念な事実を意味することになろうか。
この人の『はじめてのスピノザ』を読んだ時、本当に頭の良い人というのはこういうものかと感心した記憶がある。しかししばしば柄谷行人に惑わされるなど、残念なところがあったのも事実である。もしも平野
電源ボタンと音声の小 牧野信一の『ランプの明滅』をどう読むか②
そんなことをしても無駄だ。
どうにもならない。
そうわかってはいるけれど兎に角昨日は、こんな記事を書いた。
① え? 何でここに照子が?
② 「何故か……涙ながるる」は早すぎない?
とわざとらしく私は二つに分裂して驚いていたが、本当は、
③「試験だつてえのに困るわね」って照子も道子同様江戸弁?
とも書こうとして忘れていたのである。忘れていたのはいろんなことを考えているからだ
避けられたはずだ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む42
一人の作家が肉体的な死を迎えることは悲しむべきことだが避けられないことである。しかし同時に二人の作家が作家として葬り去られるのは避けられたはずではなかろうか。平野啓一郎は一貫して理性的であろうとしている筈であるし、明晰である筈である。しかし平野啓一郎の『三島由紀夫論』にはところどころそうではないところがあるように私には見える。
細かいことのようだが物語の組み立てを理解し、出来事の順序を理解す
分裂させられる 牧野信一の『ランプの明滅』をどう読むか①
牧野信一の記憶は当てにならない。このあたりの話はころころ変わる。それでもこの『ランプの明滅』は初期作品の一つではあるのだろう。
ここまで『闘戦勝仏』『爪』と読んできて、そのタイトルがあまり作品を象徴しないことが見えてきた。『爪』は『妹』『道子』『寝言』『冷笑』といくらでも別の題大がつけられそうだし、むしろ「爪」は主題に当たるところではないのではなかろうか。さて、では『ランプの明滅』はどうだろ
歴史の悲劇ではない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む41
結局問題は夏目漱石作品が読めない程度の国語力の問題なのではなかろうか。そして自身の国語力の欠如に気がつかず、生涯を終えてしまう。
天才作家平野啓一郎は「22 「文化意志」としての清顕」でこう述べて、自身の国語力の欠如をさらけ出してしまう。昨日明らかにしたような蓼科の策略を確認してみれば、それがけして「歴史の悲劇」などというものではありえないことが明らかであろう。
蓼科の視点から眺めると
だしに過ぎない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む40
『春の雪』第三十八章、思い通りに聡子に会えない清顕はこんなことを思ってみる。
清顕の考えは深沢七郎の『風流夢譚』そのものだ。あるいは第三巻のドイツ文学者のような考え方ではあるまいか。
三島の、清顕の言い分は天皇を弑すとまでは言っておらず、具体性を欠くことから事件にはならない。それは『風流夢譚』だけではなく『宴のあと』によっても学んだ教訓があるからで、具体的な実在の人物に刃を向けることはで