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平凡な男だ 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑭
昨日は何故か芥川がおちんちんにこだわっているという話を書いた。何故なのかはわからない。しかしナポレオンの立小便にしても男の人形にしてもおちんちんなしでは成り立たないことなのだ。
もう何かが何かに変化することには驚かない。むしろ猿が無視されづけていることが気になる。船長も「さん・せばすちあん」も猿がいないか、あるいは見えないかのごとくふるまう。どうも『誘惑――或シナリオ――』は無視される猿の話
足の裏には意味がある 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑬
なんやかやといいながら神が人類の中で唯一私にだけ正しく読む能力を与えてしまったことに今は感謝している。
おそらくまだ「幹」に気がついた地球人は私一人だけだ。「印象派」には気がついた人がいるかもしれないが、「男の人形」のことはまだ誰も知らないのに違いない。このnoteも完全非公開なので、誰も読むことはできまい。
ではおちんちんはどうなんだろうね?
体が赤児ならおちんちんもちいさくなるの
推定とは恐れ入る 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑫
昨日はこの『誘惑――或シナリオ――』という作品が無声映画のようで、金釦という不可能なものを描いたことによってむしろ、そういえばここまで赤や青といった明確な色彩のない白黒映画のようであったと気づかされ、そのことでこれまで思い描いていた画から急に色彩は消え去り、かくかくしたコマ落ちの画像となり、役者のメイクは濃く、芝居が大きくなると書いた。
そしてこれが小説だと書いた。
後で画が変わる。
思想性じゃないんだよ 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑪
昨日は印象派にちなもうとするあれこれの事物があくまでもその無標性を維持しながら有標へと誘っていると書いた。
そんなことは書いていないな。しかし芥川が「ちなみ」というか「有標性」というかは別として、何かを「あの何か」に仕立てようとしては取りやめ、物語と信仰を拒否し、その実ところどころに怪しい仕掛けを巡らせて読者を試していることは間違いないのだ。
そして一旦印象派に気が付いてしまうと、脳は意
何かが押しとどめている 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑩
昨日は女が笑い始めた理由について書いた。
繰り返し意味をはぐらかしながら、やはり話を拵える為に凝った仕掛けをしてくる。この「知的ひねり」が芥川作品の魅力の一つであることは間違いない。女は「突然男に飛びかかり、無造作に床の上に押し倒してしまう」という人形の失態の時点では笑っていない。「紅毛人の女は部屋の隅に飛びのき、両手に頬を抑えたまま」とあるのでまずは驚き、そして何かを観察している。それか
きっと三島由紀夫とは意見が合わないな 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑨
昨日はあらゆるものが眺められていて、誰も当事者足りえていないのではないかと書いた。
そのことは何故か現在の状況を言い当てているかのようでさえある。確かに眺められていて意味が見いだせない。
例えば『蜘蛛の糸』において蜘蛛はどの位置にいたのかと考えもしない。ありていの蜘蛛なら蜘蛛自身が垂れさがるのであり、もしも糸が切れれば蜘蛛は矢張り地獄の池に落ちるのである。
ただ文字が眺められている。
とても大きな窓だ 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑧
昨日は「幹」について書いた。
そして痛切に感じたのはそういうレトリックがありうるということだけ分かっても容易に真似ができないということだ。物まねというものは不思議なもので、誰か一人が物まねを披露すると、物まね芸人たちは上手い下手の差こそあれ誰でもがその物まねをまねることができるという。しかし「幹」は、……。この真似はまだできない。
それだけ凄いことを芥川が現にやっていて、みんながそれを無
これに気がついていた人はまあいないだろう 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑦
昨日はもやしがいくらなのか解らないという話を書いた。いや、芥川がとにかくもう考えうる限り最大の宇宙空間を捉えたというところまで読んだ。これは漱石の想像よりはるかにスケールが大きい。
しかし師匠ほどのダイナミズムには欠ける。まあ、普通の焼きそばとカップ焼きそばのような根本のところの違いがある。
芥川は複雑な構成の長篇小説が書けないというコンプレックスを隠ぺいしていたのだろうか。インフレーシ
それこそが奇蹟だ 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑥
トランプは始まらない。彼等(誰?)が喫煙者かどうかも定かではない。よくよく考えてみればパイプならテエブルの上に灰皿がなくても構わないからだ。
新着記事に一つだけスキをつけていく人は間違いなく記事を読んでいないことをどうして知らせたいのだろうか。そして人はどうして奇蹟を見出してしまうのだろうか。奇蹟といえばパイプが傾城になるのも奇蹟であろうし、洞穴の中に月の明かりが差し込むことも奇蹟であろうに
あなたがわるいのだ 本当の文学の話をしようじゃないか⑲
風巻景次郎という人は谷崎潤一郎の解釈を巡って、ふいに気になってきた人である。その人は、
伝統詩歌と漱石を経て、谷崎に至ったのだ。それは言い換えれば「萬葉集」から藤原俊成を経て、漱石にという話になる。しかし風巻は自身の文学の系譜を上田秋成、松尾芭蕉、井原西鶴、吉田兼好、鴨長明、清少納言、としてそれより上には遡れないと嘯く。
この欺瞞。万葉集をかじらないで古今集は読めず、そこから出ないと伝統
灰皿がないなら喫煙者ではないのかもしれない 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑤
昨日は芥川の映像編集技術、特に場面転換の動画の斬新さ、そして孤高さについて書いた。一日経っても類似の描写が思い出せない。そんなものは本当に芥川しか書いていなかったのではなかろうか。
ここが凄い。「但し斜めに後ろを見せている」でカメラ位置を決めておいてから「明るいのは窓の外ばかり」で窓を捉え、「窓の外はもう畠ではない。大勢の老若男女の頭が一面にそこに動いている」としてカメラを移動して窓の外の景
ニーチェだって言っている 本当の文学の話をしようじゃないか⑱
その本のタイトルからしてこれを芥川が読んでいないとはなかなか考えづらい文章である。そしてその指摘しているところは、芥川自身の文学作品に実に良くあてはまる。それはとても帰納法とか演繹的推理というような表現に収まるものではない。つまりほぼ頼りになる事実の見当たらないところから新しいものを取り出しているように見える場合があるのである。
例えば寝落ちする語り手などの新機軸もみごとではあるが、
や
それはまだどこにもない 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか④
昨日は猿が変身する悪魔だと書いた。これまで見てきたように芥川の切支丹ものにおいては悪魔とは兎に角変身するいきものであった。
従ってパイプに変身したり、お菓子に変身したり、傾城に変身するのは悪魔に決まっている。
クローズ・アップ。顔への寄り。その「ほっとした表情」の意味は解らない。観る者の興味を惹こうという算段だ。
下には二匹の猿がいたのだ。戦況は不利らしい。
洞穴の内部なのに、月
文字だと気がつかない 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか③
昨日は蝙蝠は人ではないかと書いた。蝙蝠がいた洞穴に「さん・せばすちあん」がいたことで、蝙蝠も「さん・せばすちあん」も両方怪しくなる仕掛けだ。蝙蝠がいた洞穴に石原さとみがいたら、やはり石原さとみも怪しくなる。あばれる君がいたら、まあ、そうかと思う。そのための「さん・せばすちあん」なのだ。
また猿が出てきた。気のせいだろうか。つい最近『猿』の話を読んだような気がする。
ふむ。先月末か。割と最