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記事一覧
冬木立果敢なき葛の寒さかな 夏目漱石の俳句をどう読むか92
冬木立寺に蛇骨を伝へけり
これは実際に言い伝えにちなんで蛇の骨を保存していた寺のことを詠んだ句のようだ。
高浜虚子の『伊予の湯』にもこの寺のことが出てくる。ただし蛇の骨のことは書かれていない。
子規の評点は「◎」である。しかし他県の人には解らない句ではないか。
解説も石手寺のことには一切触れていない。これでは何のことかわからないだろう。私も最初是は漱石がどこかから蛇の骨を拾ってきて
山陰に斧振り上ぐる水の音 夏目漱石の俳句をどう読むか91
全裸の人は何故真っ裸なのだろうか?
そんなことを考えていた。
それは恐らくその人が服を着ていないからなのではあろうが、逆に言えばその人以外が服を着ているからこそ、全裸と呼びうるのではないかと。
本来自然なものである筈の全裸には、自然でありながら真っ裸という念押しが与えられた。言葉とはそのような社会的なもの、文化的なものである。
白馬遅々たり冬の日薄き砂堤
子規の評点が「◎」なの
春待つや腹は中々大晦日 夏目漱石の俳句をどう読むか90
春待つや云へらく無事は是貴人
無事は是貴人とは禅語で「どんな境遇にあっても、あたりまえのようにこなしていける人こそが貴ぶべき人である」という意味だそうである。つまり「どんな境遇にあっても、あたりまえのようにこなしていける人こそが貴ぶべき人であると言ったそうだから大人しく春を待っていよう」という解釈になるのだろうか。
これが禅語でなければまるで「戦争では貧しい農家の次男三男がバタバタ死んでいっ
是見よと刹那を急ぐ白髪武者 夏目漱石の俳句をどう読むか89
勢ひやひしめく江戸の年の市
ネットの歳末バーゲンセールも含めて「年の市」とは昔から続いているものと見做しているのだろうか。解説には年の市の説明もない。
しかしこういうものこそが明らかに絵面を変化して、名前だけ同じものなのではなかろうか。
昔の映画で、チャールズ・ブロンソンが馬鹿でかい電話機を使っているのを見て思わず噴き出したことがある。そういう意味では、
勢ひやひしめく江戸の年の市
君が代やぺたりぺたりと帝かな 夏目漱石の俳句をどう読むか88
水仙は屋根の上なり煤払
水仙とはこうしていつも屋根の上にあるべきものであろうか。
いやそんなことはなかろう。
これは単に煤払いの煤がかからぬようにと水仙の鉢を屋根に避難させたのだということか。
これは観葉植物しか友達のいない殺し屋レオンのようなものを、一鉢の水仙しか大切なものがないという侘しさの中に創り出そうという狙いか。
とはいえ花から盆栽へとより趣味が枯れていくのが世の習わ
寒垢離やから堀端の荒法師 夏目漱石の俳句をどう読むか87
医者が運転していた車にひかれて死亡。万引きGメンが万引き。そうしたどこかだらしないニュースが流れては忘れられていく日々にうんざりしている暇はない。まだ私は日曜日に偽装した金曜日を生きるしかないのだ。忘れてはならないのは割引クーポンの期限が今日までということだ。今日は何があっても南ではなく北に行かねばならない。
寒月やから堀端のうどん売
寒月や薙刀かざす荒法師
何か無理に時代をつけたよう
定に入る御運も今や冬木立 夏目漱石の俳句をどう読むか86
土堤一里常盤木もなしに冬木立
子規に、
汽車道の一すじ長し冬木立
という句がある。これに対して、漱石は一里歩いてみる。冬枯れするから冬木立であり常盤木でないのは当たり前なのだが、これはまさに「土手を一里歩いてみた」という寄る辺ない姿が詠まれた句と見做していいだろう。書見などほかにすることがないわけではなかろうに、そうでもしないといられなようなものがあつたのだろうか。
しかしふと思うの
すべりよさに小猫も無事に紙衾 夏目漱石の俳句をどう読むか85
愚陀仏は主人の名なり冬籠
漱石の顔は糸瓜先生と呼ばれるほど細長くはない。
むしろ芥川が糸瓜先生だ。この頃のあだ名はラッキョウ。
漱石がどこから愚陀仏という号をひねり出したのかはわからないが、阿弥陀仏から阿弥を取り外して愚をつけたことには間違いはなかろう。何にしても仏だから不遜なことだ。
この家の主人の名は愚陀仏というのだよというだけの句だけれども、この「冬籠」の怠惰な感じと「
睾丸の面目如何十八間 夏目漱石の俳句をどう読むか84
夏目漱石の俳句、そう検索して一番上位に来るこのサイト、恐るべきことに一言の感想もない。何か適当なことを書いていたら文句をつけてやろうと覗いたわけではない。
本当にわが国では通称俳句保護法、「俳句の保護に関する法律」により俳句の感想を鑑賞として述べることが厳密に禁じられているのではなかろうか?
こんな法律がきっとどこかにあるに違いない。それでも私は私のやり方を通させてもらう。
本来の面
魚河岸や女にもあり棕梠帚 夏目漱石の俳句をどう読むか83
想像を絶する虚無が目の前にある。
無言の鑑賞にさらされる言葉たち。まるで言葉の監獄だ。網羅性をもって夏目漱石の俳句を並べれば少しは風流になるものだろうかと、ただデータを張り付ける。俳句がデータになっている。あるいはそれは昆虫標本でピン止めされた蝶のようなものだ。
そうして夏目漱石が殺されていく。
此頃は女にもあり薬喰
薬喰夫より餅に取りかゝる
落付や疝気も一夜薬喰
薬食いとは
なき母の命は五文河豚汁 夏目漱石の俳句をどう読むか82
賭けにせん命は五文河豚汁
このように多くのサイトが「河豚汁」を「ふぐじる」と読んでいるが「ふぐとじる」が正しい。
こうした細かいところを疎かにして偉そうなことを書いていてはみっともない。文学とは所詮文字なので文字が読めないと話にならない。偉そうにしていなければいい。しかし人にものを教える立場で間違えば責任が問われるべきだ。
河豚汁と死の危険性とは最もありふれた取り合わせというより
くさめして忌日と知るや雪の原 夏目漱石の俳句をどう読むか81
あら鷹の鶴蹴落すや雪の原
まさに猛禽類、という感じのすさまじい句である。鶴もとんだ災難だ。昔話という感じのない、生々しい景色だが、この自然界の厳しさがいかにも冬という感じもする。ウサギがいればウサギを、蛇がいれば蛇を食べなくてはならないのが冬の鷹の宿命なのであろう。
南国のフルーツ蝙蝠のようにマンゴーなどをかじっている余裕はないのだ。
竹藪に雉子鳴き立つる鷹野哉
雉子も鳴かずばは長野県
数多旅茶色の裏はふぶきかな 夏目漱石の俳句をどう読むか80
冬の日や茶色の裏は紺の山
解説は特にない。しかも宇宙全体から「ふーん」されているようで、例のひたすら無言の鑑賞にもさらされていない。つまり誰も解釈していない。
冬のある日、一面を茶色に冬枯れした山の裏側を見ると青々としていて紺色に見えたという句か。しかし山の裏に回り込むという大変な動きが詠まれた句というよりは、「きっと」が略され、「きっと紺色だろうね」と簡単に想像がされているのではないかと
里神楽庭燎に寒き馬鹿の面 夏目漱石の俳句をどう読むか79
懇ろに雑炊たくや小夜時雨
懇ろとは特に男女が親しくなることである。懇には熱がこもっていておろそかではないという意味があるので、ここでは小夜時雨が降ってきて寒くなったのでじっくりと雑炊を炊くよというようにも読めなくはないが、やはりストレートに読めば、なにか男女が睦まじく夜雑炊を食べようとしているようなそういう感じがある。
こういう句で困るのはこれを漱石のプロフィールと付け合わせて私小説的に鑑賞